なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

軽い山歩き

昨日は久しぶりに山歩きをした。山歩きといっても、散歩程度である。今までにも数回行ったことがあり、小田急鶴巻温泉駅から弘法山に行き、権現山を経て秦野の駅に出るコースである。今回は同じコースを秦野からタクシーで弘法山の入り口まで行き、まず権現山に行き、少し戻って弘法山に向かい、鶴巻温泉駅へ出た。全体で約4キロの山道である。

権現山には展望台があり、バードウオッチングの場所もある。昨年秋に行ったときには、望遠レンズで野鳥を撮影する素人カメラマンが何人もシャッターチャンスをうかがっていた。今回は親子連れが一組と二人の年配の男性に出会っただけだった。

権現山に登る道には桜並木が少しある。もう花は散って葉桜になりかけていた。代わりに山ツツジのオレンジピンクの優しそうな花が目を楽しませてくれた。地面には黄色のタンポポや薄紫のスミレが点在して咲いていた。樹木の枝には生え始めた若葉が輝いていた。

大きく息を吸いながら、両手を広げたりして、独りで歩いてきた。この若葉の時期の山歩きは、自然から元気をもらえるようで気持ちがいい。一汗かいたからだを鶴巻温泉の湯につかってきれいにして、夕方横浜に帰ってきた。

仕事や人との関わりから離れて、自然と向かい合う時は貴重である。リトリート(撤退)は、隠居、隠れ家をも意味し、またカトリックでは黙想(期間)を意味するようだ。退修会をリトリートと言ったこともあったように思う。仕事や人との関わりを離れることもある種のリトリートと言ってよいだろう。

福音書のイエスの物語を読むと、イエスは時々一人になって静かな寂しい場所に退き、祈られたという。イエスは一人になって祈り、神と格闘されたのだろう。そのような時をイエスは自分のために確保することによって、イエスらしく人々の中で振舞うことができたのであろう。

私たちも時々そのような時間を持つことが必要ではないか。