なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

気づいたら洗礼

★高校生からの質問 Part14★
「クリスチャンになったら、罪をおかさないように神に忠実にしたがわなきゃとか、思わなかったですか? 罪深い人間なので、忠実に聖書の教えを守れないと思うので、洗礼を受ける勇気がありません」

私が高校3年の11月初めにはじめて教会の礼拝に行くようになって、その年のクリスマスに洗礼を受けたお話をしましたので、このような質問を寄せられたのでと、勝手に推察します。当時の自分のことを思い出して見ますと、あなたの質問「クリスチャンになったら、罪をおかさないように神に忠実にしたがわなきゃとか、思わなかったのですか?」にははっきり答えられます。

洗礼を受けた時には、私はそういうことはほとんど考えませんでした。勢いといいますか。イエスが共にいてくれる。そしてこのイエスは人間を裏切らない。そういうイエスと一緒にこれから生きていきたい。その当時の私には、イエスという存在は驚きそのものでした。気にかけている女の子からラブレターをもらったような気持ちで、宙に舞い上がっていたのかも知れません。

ですから、あなたの質問のように冷静に、クリスチャンになったらどうすべきなのなかということを考えた上で洗礼を受けたわけではありません。そういう私のような者が、それ以来ずっと教会を離れずに牧師になって今日まで来ていることも、考えたら不思議としか言えませんね。

洗礼を受けるということを、まず最初に考えますと、多分あなたのように自分は罪をおかさないで神に忠実に従えるのだろうか、と不安になるのかも知れません。私が洗礼を受けたいと思ったのは、今から思うと、イエスの魅力に取りつかれたからです。その時は忠実に聖書の教えを自分が守れるかどうか考えもしませんでした。多分聖書をあなたの考えるような教えとして私は読んでいなかったと思います。

牧師である私がこんなことを言うのはどうかと思われるかもしれませんが、洗礼を受けるかどうかということが第一ではないと思うのです。聖書特に福音書に描かれていますイエスとイエスの出来事を、あなたの日々の生活の中で追体験するような感じで、そこから響いてくる声に静に耳を傾けて見たらいかがでしょうか。

エスに病気を癒された人の物語ならば、病気だった時のその人の苦しみ、なぜイエスはその人の病気を癒されたのか、癒された時のその人の喜びの大きさだとか、いろいろと想像力を働かせて見てはどうでしょうか。そしてイエスが今私たちの中にいらしたらどうだろうかということも。

つまり聖書は教えとしてではなく、神=イエスさまの物語として読む(聞く)と、神=イエスの物語に感動させられてしまうのです。そして気がついたら、洗礼を受けようかと思っていたというのが、私の実感です。

今回も答えになったかどうか分かりませんが、考えてみてください。