なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

肉、心、霊

去る日曜日の説教で本田哲郎さんの『釜ケ崎と福音』という本から教えられた、ユダヤ人の人間観の三様の言い表し方を紹介させてもらいました。肉=バサル、魂=ネフェシュ、そして霊=ルアッハです。

本田さんはこのように記しています。「ただこれは人間を構成する三つの部分ということではない。人間を霊として表現するときは、人間を神さまとコミュニケイトできる、対話できる存在としてとらえている。『すべての霊は、神を讃えよ』。それに対して、人間を魂=ネフェシュと表現するときは、思いやりやいたわり、苦しみや喜びに対するコンパッションなど、動物とは異なる人間的なもの、ヒューマニズムでとらえた人間に焦点を合わせています。そして肉=バサルと表現するときは、植物も動物も含めた生命あるものとして、生きて、食べて、飲んで、動いて、そして排泄して、病気になったり、治ったり、死んだりする生きものとしての人間をとらえているといえます」と。

説教では、マタイ福音書の5章3節の訳との関連でこのことを取り上げました。5章3節は新共同訳聖書の訳ですと、「心の貧しい人々は、幸いです」となっています。この「心」と訳されている言葉は、原文ではプノイマというギリシャ語が使われていて、ヘブル語のルアッハに当たります。ですから、ここは「霊」としての人間が「貧しい」状態におかれていることになります。そこでこの5章3節は本田哲郎さんの『小さくされた人々のための福音書』の訳ですと、「心底貧しい人たちは、神からの力がある」と訳されていいます。本田さんは「幸いです」も「神からの力がある」と訳しています。

さて、精神科医の柏木哲夫さんは、「生きる力は『生命』であり、生きていく力は『いのち』である。魂に生きていく力が宿るときに、人は生き生きと生きていける」と、『生きていく力』という本で述べています。柏木さんの魂は上記では霊に当たります。

末期癌の患者さんを沢山看取ることによって、柏木さんは「私の人生は何だったのだろうかという、その問いに答えを出すお薬はありません」と言っています。末期癌の患者の問題は、まず痛みという体の問題です。痛みが取れたら、不安やいらいらするとか気分が憂うつだとかいう心の問題が起こり、そして次に家族との複雑な人間関係とか、職場で責任ある人であれば職場のことが気になるという社会的な問題が続いてくる場合が多いと言います。そして最後には死後人間はそうなるのだろうかとか、自分の人生は何だったのだろうかという霊的な問題にぶつかるというのです。

この最後の問題は、神との垂直の関係における平安を得ることによってしか、その答えはないでしょう。

肉と魂(心)と霊からなる人間の一人として、どう生きていく力を得ていくのか。これは私たちにとっての根源的な問いではないでしょうか。