なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

平和

8月が近づいてきました。私たちの教団では8月第1日曜日を「平和聖日」として守っています。私は教会で毎年平和聖日に向けてメッセージを書いています。今年のメッセージの一部を紹介します。

 最近共謀罪が法案として国会に出るようになり、憲法改悪、教育基本法改悪の動きが顕著になってきています。思想信条・集会結社の自由が段々と狭められていく危惧を覚えています。また米軍再編と自衛隊と米軍の一体化は、アメリカの世界戦略の中に日本という国が有無を言わせず組み込まれていくことを意味しています。そのような状況の中で、私たちの教会はイエス・キリストの福音に立って、「平和を造り出す者」としてどのような宣教活動を展開していくことが求められているでしょうか。

 戦争という最大の人間及び他の被造物の命と生活の破壊がイエス・キリストの福音に反することは、キリスト者ならば誰も否定できないでしょう。しかし、日本における米軍基地建設反対及び基地撤去という、例えば沖縄辺野古の反基地闘争には必ずしも賛成ではないというキリスト者はいるかも知れません。しかし、沖縄のある牧師は、沖縄の基地がアメリカのイラク攻撃に使われている現状において、沖縄=日本は既に戦時下にあると言い、イラクアメリカの攻撃によって苦しんでいる子どもたちや市民のことを想うと、今新に作られようとする辺野古の基地建設阻止こそがキリスト者としての自分の使命であると言っています。

一方現在の日本社会の中で日常的に命と生活が脅かされている多くの人々がいます。野宿を余儀なくされている人々、自殺という他殺によって自らの命を絶たざるを得ない人々、虐待やいじめによって傷を負っている子どもたち、心に空洞を抱えて生きる喜びを感じられないまま日常を過ごしている若者たち、精神科に通いながら仕事を続けなければならない人々、介護を必要としていながら必要な介護を受けられないでいる高齢者の方々、さまざまな障がいや差別に苦しむ人々。数え上げたら切が無いくらい日常的に命と生活が脅かされている人々がいます。

このように一方には基地、靖国天皇制、憲法9条の問題のようなさまざまな政治的社会的な問題があり、他方には日常的に命と生活が脅かされている沢山の人々がいる現在の日本社会の中で、「平和を造り出す」教会の宣教の働きが問われていると思うのです。聖書の平和は争いも無くすべての人が生きていて良かったと思えるシャロームです。その中心には人の痛みへの共感があり、共に苦しみ共に喜ぶ共苦・共喜による癒しによる共生です。とすれば、その平和を造り出す教会の宣教は、人の痛みへの共感をベースにして、一方では反戦・反差別の立場を明確にし、他方ではさまざまな痛みを背負う人々との連帯を造り出すことによって、イエスによって現実社会の中にはじまっている「義と平和と喜び」(ロマ14:17)としての神の国の民として私たちキリスト者が生きていくことではないでしょうか。

   平和が来ますように!