なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

病の癒しとは

マルコによる福音書5章24-34節には12年間も出血の止まらない女の物語が記されています。12年間も一つの病に苦しまされている人が、どんな思いを持っているものなのか、健康な者にはなかなか分からないことです。この女の人は、26節をみますと、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」と言われています。病気のために絶望的な状態に置かれている人間として、この女はここに登場しています。

エスの時代の人々にとって、病は汚れとも考えられていました。12年間もの肉体の苦痛に加えて、更にこの女は自分に触れた人は誰でも汚れるのだという周りの人々の視線に耐えなければなりませんでした。以前親しかった友人も、自分が病気になり汚れた者になると、別人のような振る舞いをするようになるということを想像しただけでも、病人の立場がどんなにつらいものであるかが分かります。

H.C.ピーパーという人が書いた『病気になったとき』という本があります。その中でピーパーはこのように述べています。病気に襲われた時、その人間が持つ「根本感情は、なにか腎臓とか心臓とかが故障しているだけでなくて、われわれ自身が故障しているということである」と。病める者の置かれた状況を、この言葉が的確に示していると思います。

病気の人を襲う不安は、「わたしはもう何の役にも立たないのではないか」というものではないでしょうか。それは、健康なときにもしばしばわたしたちを襲う不安でもありますが、より鋭い形で病気の人を襲うのです。
わたしたちが生きています現実社会は、強者が中心ですから、行動力のある人間が尊敬され、この世から報われます。しかし、そうでない人間、病気のために自分から何も出来ず、人の助けを受けなければならない者には、殆ど関心がはらわれません。行動力がゼロに等しい病人は、やっかいがられ、忘れられていくのです。

女はイエスの衣に触れました。彼女はイエスを、自分のことを本当に理解してくださる方、自分を病の虜から解き放ってくださる方と信じて、イエスの衣に触れたのでしょう。そして、イエスによって何物によっても引き離し得ない神の愛に包まれた己れを発見することが出来たのではないでしょうか。
エスは人間の生を疎外する病を私たちから追い出します。ご自分が私たちの病を負うことによってです。病める人間を、ご自身その病める人間の傍らに立ち給うことによって、イエスは、「愛は病や死よりも強い」という真実にその人を生かすのではないでしょうか。