なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

弟子派遣の物語から

福音書にはイエスが弟子たちを宣教に派遣した記事があります。例えばマルコによる福音書6章6-13節は弟子派遣の記事です。
この弟子派遣物語から第一に私たちが聞き取らなければならないことは、イエスが宣べ伝えた神の国の福音は全ての人に向けられているということです。弟子の招集と派遣は、すべての人に向けられた神の国の宣教から付随的に生じてくるのであって、弟子の招集と派遣が第一にあるのではありません。

ところで弟子たちは派遣に当って二つの注意をイエスから受けました。
一つは、「・・・旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚は着てはならない』と命じられた」(マルコ6:8,9,)とあります。
これは単なる所有を否定している禁欲的な命令ではありません。弟子たちは、自分の必要なものを安心して用いてよいのであって、禁欲自体が一つの積極的な業だと言われているわけではありません。これは、弟子たちが自分たちが宣べ伝える対象としての福音自体に寄り頼むよりも、自分自身の物質的、精神的装備に頼っているとすれば、そのような福音を運ぶ使者は信用がおけないといおうことが言われている(E.シュヴァイツァー)のです。その意味で、イエスの弟子たちは、ただイエスの権威によってのみ生きる貧しい者なのです。

もう一つの注意は、「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(6:11)。ここでは、弟子たちがイエスに託された福音を、町や村に行って人々に宣べ伝える場合、福音の安売りが禁じられているのです。人間の願望に合わせて、福音を人間化して、より人間に受け入れ易くすることは、弟子たちが考えるべきことではありません。弟子たちは、イエスから託された権威によって語り、行動することだけが求められているのです。
弟子たちを弟子たらしめるのはイエスへの信従のみです。

私たちにとって福音とは、神がイエスにおいて私たち全てを極みまで愛し給うすべてに先行する神の愛のことです。神に逆らって自分で自分の生を立てようとする私たちは、神ならぬ他の神々に隷属する以外にありません。世俗的な様々な権力に、その代表としてのマモンに支配されざるを得ないのです。

今日の教会の弱体化があるとすれば、私たちの力が足りないかれではなく、本来立つべきところに立たないで、この世的な力に頼ろうとしているからであることを、この弟子派遣の物語は私たちに語りかけているのです。