なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

闇の中の光

クリスマスおめでとうございます。

私は既に天上の人になっている井上良雄先生という方を尊敬しており、先生の説教集の中にある一つの譬(たとえ)を、私は葬儀の説教で時々用いさせてもらう。その譬はクリスマスのメッセージにも当てはまるので、ここで紹介させてもらうことにした。

「ここに一つの家があり、この家は既に朝の光に包まれています。しかし、この家の窓には、厚いカーテンが下りているために、この家に住むものは、ただ闇の中に生きなければなりません。闇が彼らの現実です。そのことは、そこに生きているキリスト者にとっても、変わりありません。ただキリスト者は、そのような闇の現実に生きつつ、この現実は既に過ぎ去った現実であり、この家が既に朝の光に包まれているということこそ確かな現実だということを知っています。そのようなキリスト者にとって、朝が既に来ているという告知(知らせ)は、決して理想ではなく、美しい夢でもありません。しかし、彼はなお同時に、自分がまだ闇の中に生きているものであることも忘れません。彼は、言わばこれらの二つの現実の狭間に身を横たえて生きます。彼は闇の中にあって、やがてこの家のカーテンが取り払われ、朝の光が家の中に満ち溢れる日を待ちつつ生きます。」

エスは「闇の中の光」だと言われる場合、闇の中にありながら光の子らしく振舞われたからだと思う。闇の中にいると闇の子として振舞わざるを得ないようになる。現代社会を闇の世界に譬えれば、現代社会に生きる者として、なるたけ抵抗なく、うまく生きるためには、現代社会の流れを見極めて、その流れにうまく乗ることであろう。

ホリエモンは途中で躓いたが、一時は現代日本社会の英雄とされた人物である。情報社会と株取引に成功したからであろう。でも彼は光の子らしく生きたとはいい難い。

光の子は社会に迎合して、その社会の寵児に祭り上げられることはない。イエスのように社会から抹殺されるのである。しかし、抹殺されても光の子はその光のゆえに後に続く人を生み出していくのである。

エスの時代のローマ皇帝アウグストは絶大な権力をもったこの世の英雄であった。イエスとは対照的な人物である。イエスは貧しく小さく、最後は犯罪人として処刑された。

だが、今世界中にイエスの誕生を祝う者がどれだけ多くいることであろうか。一方アウグストは福音書のイエス誕生物語に登場するくらいで、今アウグストを慕う者は、いてもごく僅かであろう。不思議である。