なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信-1

【船越通信】№1、    
 
      3月27日の紅葉坂教会最後の礼拝と感謝会を終えて、16年間の紅葉坂教会での牧師としての働きを終えました。この最後の礼拝には、洗礼を受けていない人にも希望者には礼拝参加者の誰もが配餐できる、いわゆる「開かれた聖餐」を私が執行しているということで、他教会の会員の方の出席があったり、紅葉坂教会での私の最後の礼拝ということでわざわざ沖縄や山梨から出席してくださる方があったりして、礼拝堂に隣接している小集会室もギャラリーも一杯になるほどの出席者がありました。普段の年のクリスマス礼拝よりも人数は多かったように思います。山梨から来られた方がメールで、「327日は紅葉坂教会での最後の礼拝に一緒に集わせていただき、ありがとうございました。こういう表現は、不躾なのかもしれませんが、2階席の最後部から見ていた礼拝は、何だか客席参加型の素晴らしい劇に立ち会わせていただいたような感を持ちました。私と一緒に集わせていただいた(二人も)、・・・・それぞれに印象深く、確信や感銘を刻み込んだようです。」と感想を寄せてくれました。
      4月3日(日)の礼拝では、マルコによる福音書5章1-20節から悪霊にとりつかれて、足かせをはめられて墓場で叫んでいた人の解放の物語をテキストにしてお話をしました。この種の物語はある意味で民間説話でしょうから、この説話の受け手である当時の人々の思いが込められていると考えられます。ローマによって支配されて困窮していた民衆にとって、レギオンというローマの軍団を示す名の悪霊が、イエスによって「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:8)と命ぜられ、悪霊どもはイエスに近くにいた2000匹の豚の群れに乗り移ることを乞い願い、イエスの許しによって豚に乗り移って、崖から雪崩を打って湖に落ちていって、湖で溺れて死んでしまったというのです。小河陽さんは、このような悪霊の溺死には、ローマの軍団と重ねあわされて、ローマの重い支配抑圧に苦しむ民衆が、ローマの軍隊などそうなってしまえばいいんだ、というドロドロとした暗い感情が反映されているのではないかと言っています。あり得ることのように思われます。人間を非人間化する政治の力を含めて、法や慣習や経済構造や人の意識など、人を覆っている外皮がイエスによって取り除かれたときに、人は身軽になって幼子(神の子)に降り注ぐ神の愛の直接性の下に生きることができるようになります。この悪霊追放の物語のメッセージはそこにあるように思われます。悪霊から解放された人は、神の愛の直接性の下に生きるその喜びをもって、家族のところに帰っていきます。この家族への帰還は、単なる社会復帰ではありません。
現代において心の病を持つ者に、民間療法を含めてカウンセリングや精神療法が繁盛しています。しかし、その人の心の傷によっては、なかなかそれらの手段によっては解放に繋がらない場合もあるようです。次から次に療法を求めて渡り歩く人もいるようです。たとえ状態が回復しても、それ以前とそれ以後のその人を覆う外皮が強い場合は、その回復は一時的なものにならざるを得ないからです。
エスの治癒は、その人を癒すだけでなく、その人を覆っていた外皮をも、そんなの絶対ではないんだと、絶対があるとすれば、神の愛の直接性だけなんだと、身をもって開示されているのではないかと思います。悪霊から解放されたこの人は、その喜びをもって、家族の下に帰りました。ですから、イエスの福音の出来事には、単なる社会復帰とは違う、プラスαがあるように思うのです。
このプラスαをもって、私たちも日常を生きていきたいと思います。
      紅葉坂教会では「黙想と祈りの夕べ通信」を毎週出していました。それに代わるものをと思い、「船越通信」を出すことにしました。お読みいただければ幸いです。この「船越通信」はしばらく書き込みをしていませんでした私のブログ(ヤフーブログ「なんちゃって牧師の日記」)にも掲載します。
      では、これからもよろしくお願い致します。