なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(11)

 (この「安息日は人のために」は「福音と世界」20118月号の「随想メッセージ 聖書と現実の往還から8 切り捨てられる者の叫びに応えるイエス」の中にある「安息日(法)は人のために」とほとんど同じものです。) 
 
安息日は人のために」イザヤ書1:10-17、マルコによる福音書2:23-3:6
         
 
  マルコによる福音書の本日のテキストは、安息日論争と言われる箇所であります。ここには、法と人間の問題が現れていると言えるでしょう。つまり、私達は個人としてと同時に集団として、特に現在の私達の場合には、日本という国家の一員として生活しています。そして、国家には法律があり、その国家の法律によって、私達の行動が規定されています。そういう私達の状況が、基本的にもっている問題として、個人としての思いや行動と国家の秩序を表す法体系がもっている規範と、どうしてもギャップがあるという点であります。それ故に、自分に正直に生きようとする時に、場合によっては、国家の法体系が持つ規範を踏み越えていくということが起こり得ます。逆に国家の法体系が持つ規範が絶対的だということになりますと、それを踏み越えていこうとする自分というものを、何らかの形で押さえつけなければなりません。そういう場合は、自分を無理して殺すわけですから、その人にとっては、国家というのは抑圧そのものということになります。
  こういう問題は、私達が一人で生きているのではなく、いろいろな共同の関係の中に生きているという、私達の現実そのものの中に内在している問題であります。イエスは、こういう問題に対して、どういう風に答えているのか、をこの安息日論争の物語から学びたいと思います。
  安息日というのは、出エジプト記20章8節以下に記されていますように、十戒の中の一つの戒めであります。この十戒をその根底とした律法(法)を、イスラエルの人々は神から与えられたものとして、自分たちのイスラエル共同体の要と考えていました。ですから、彼らにとっては、律法は極めて重要なものでありました。私達の場合、法に対する感覚は非常にル-ズですから、彼らの律法に対する厳格な態度は、日本人である私達にはなかなか理解出来ないのであります。その主な原因は、天皇などとは全く違う普遍的な超越者に対する信仰が欠けているからでしょう。古代イスラエルの場合、十戒が出来た背景には、シナイにおいて、神とイスラエルの民との間に結ばれた契約があります。この契約があって初めて律法が出てくるのです。今から3300年前頃、既にその頃エジプトには強力な王朝があったわけですが、当時イスラエルの民はエジプトで奴隷にありました。そのような奴隷状態から、モ-セという指導者によってエジプトにいたイスラエルの民はエジプト脱出します。そして、シナイ半島をさ迷い、カナン(パレスチナ)に侵入して、そこに定着するようになります。イスラエルの民は、この出エジプトという出来事を、神による導きだと固く信じました。十戒の前文に、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだした者である」(Ex.20:2)とあります。つまり、十戒は、イスラエルの主であり、奴隷のイスラエルをエジプトから導いた神の前で受け入れているのです。イスラエルが神の民であるが故に、神とイスラエルとの間に契約が結ばれたのです。そしてその契約は、出エジプトの出来事に示されている神の恵みが先行します。神の恵みには、当然それにふさわしいイスラエルの民の応答が求められます。ですから、契約には、必然的にその応答を促す命令と法が伴うのであります。そういう背景の中で、十戒という法は、神との契約関係を結んだイスラエル共同体において、意義を持ってきます。
  イスラエルとは、ユダヤ民族の信仰共同体としての名称ですが、その意味は、「神励む」、「神治める」といわれます。聖書の中でイスラエルという名称が最初に出てくるのは、創世記32:28で、ヤボクの渡しにおいてヤコブに与えられた名前です。ヤコブはひとりの人、その人が神であるわけですが、そのひとりの人と組みうち、相撲をとって勝ちます。そこで祝福を得ます。神と四つに組んで相撲をするとい表現には、神との深い関係が示されています。イスラエル神の民です。神が治める民です。したがって、神に対する信仰の従順が何よりも求められます。古代イスラエルにとっては、契約と十戒(法)が、彼らがどうのように生きるべきかが、具体的に示されているものでありました。ですから、その十戒の中の「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という命令は、マルコによる福音書2章27節で、イエスがおっしゃっておられるように「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」ということが、そのまま妥当していたのであります。古代イスラエルにおいては、イエスの時代のユダヤ教のように、安息日に関する細分化された禁止命令はありませんでした。六日間の厳しい労働から解放されて、休みの日である安息日には、神の創造の業(Ex.20:11)や出エジプトの出来事(Deut.5: )を想起しつつ、礼拝を捧げたのでしょう。そこで神との契約が確認され、神の民にふさわしい共同体形成が十戒に導かれつつ、具体的に成されていったのではないでしょうか。民族共同体でも、国家でもない、誓約共同体がイスラエルなのです。
  しかし、イエスの時代のユダヤ教は、律法をどのように理解したかと言いますと、今日のテキストに出てくるパリサイ人などの態度にそれが現れています。2:24 「するとパリサイ人たちがイエスに言った、『いったい、彼らはなぜ安息日にしてはならなぬことをしたのですか』(イエスの弟子たちの行為が安息日に禁止されていた行為に当たっていた。ミシュナに「安息日」に39の禁止条項があり、その内に、弟子たちの行為が脱穀と考えられ、そのことは刈り入れに当たるということで禁止されていた。)
  3:2 「人々はイエスに訴えようと思って、安息日にその人を癒されるかどうかをうかがっていた。」(安息日に医学的配慮は生命が危険にさされているときにだけ与えることが出来た。)このような人々の態度には、古代イスラエルのあのおおらかな自由さ 激しい労働から解放されて、神に礼拝を捧げる は全く失われてしまっています。どうしてなのでしょうか。法というものが持っている限界をはっきり見定めていないと、人間が法の奴隷になってしまうのであります。
  パウロの書簡には、「律法の呪い」というように言われていますが、本来人間を正しい方向に導くべきものが、その意味で人間にとって祝福であり、善であるべき法が、逆に人間を縛りつける働きをするようになるのであります。つまり、法はどのような場で効力を発揮するのか、ということが正しく踏まえられていないと、そのような倒錯がおこります。
  イスラエルは律法が先行して形成された誓約共同体ではありません。あの出エジプトの出来事によって(神の救いが先行)形成されたイスラエルであって、律法(十戒)は、そのような神の民としてのイスラエルがそれにふさわしく生きてゆくための導きとして、後から与えられたものであります。ですから、契約に対する信仰の従順が生き生きとしているところで律法はその本来の使命を発揮するのであります。ところが、パリサイびとのような人々によって、そこが逆転して考えられました。つまり、安息日に関する細分化された規則を忠実に守れば、それが権利となって契約(神の恵み)を獲得できるのだという考えです。この考え方は、今日の私達の市民社会の中で、法律に違反しなければ人間的にも正常であるという感覚を持つのに似ています。この考え方の中には、大変恐ろしい偽善が侵入しているのであります。イスラエルの普遍的な十戒のような法であっても、その法が呪いになり得るのです。
  安息日に会堂に人々が集まって礼拝が行われていたときに、そこに「片手のなえた」人がいました(3:1)。恐らく人々は普段そのような人を無視して、律法に決められている通り、安息日を守っていたのでしょう。それが一つの功績となって、自分たちは神に受け入れられている人間なのだ、と誇っていたのでしょう。苦しみをもっている人がその同じ所にいても、彼らには関係在りません。偽善に陥っている人は、自分からそのことに気づくことは至難なことです。それ故、イエスのような方がその真ん中に立って、正常な人間の姿を示したとしても、逆にイエスの方を異常と決めつけてしまいます。そして、イエスを自分たちの秩序を破壊するものとして抹殺するのであります。
  私達も、また、傍観者としてこの物語を読むことは出来ません。イエスはこのところで何を私達に問いかけているのでしょうか。「安息日はひとのためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」と言われていますが、この、イエスの言葉はどのように理解すべきでしょうか。この言葉を言い換えて、「法は人のためにあるもので、法が人のためにあるのではない」。勿論、ここでの法は、旧約の律法であり、道徳的行為の規律や命令であります。国家の法は必ずしも人のためにあるものではありません。何がしか支配者の側の支配を正当化する機能を持っているものですから。
  法が人のためにある、と言われる場合、人とはどのような人なのか。エゴイズムを抱えたままの生来の人間は、法を生かすことが果たして可能か。出エジプト記の「安息日」の規定のところには、「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならないあなたのむすこ、娘、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである」と言われています。「しもべ、はした、他国の人」も休ませよ、と言われているわけです。古代世界では、このような社会的弱者への配慮が考えられるのは、イスラエル出エジプトの経験によるものと思われます。そのことを神の救いの出来事として感謝して受け止めたイスラエルの人々が、神の前にふさわしいものとさせられ、そのような歩みをしていこうとしたことによります。彼らの実験が、必ずしも理想通りにはいかなかったとしても、この試みは、今の私達にも課題として現在的な意味を持つものといえましょう。
  法は、神によって創られたまことの人間を作りません。神との関係において自由とされた人間が、法を守りうるのであります。神を知り、隣人を知ることによって。神の人、イエスこそ自由な方であります。パリサイ人のような、自分を正当な人間であると誇る人々には、律法違反者に見えたイエスこそが、真に法を生かす道を示しているのであります。