なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(11)

   「真実と公平と正義をもって」エレミヤ3:19-4:4、
                      2015年6月21日(日)船越教会礼拝説教

・私たち人間には心があって、心が感じ、心が思うことに従って、毎日を生きて行くのではないかと思い

ます。ところが私たちは、いつもいつも幼子のような澄んだ心を持ち続けることができるかと言いますと、

それがなかなか難しいのであります。

・例えば、エジプトを脱出した出エジプトの民は、40年間シナイ半島を彷徨い、荒野の生活をしたと聖書

では言われています。この時のイスラエルの民のことを考えてみてください。彼ら彼女らは、エジプトを

脱出するときに、彼ら彼女らはエジプトでは奴隷でしたので、たくさんの財産を持っていたとは思えませ

んが、それでもエジプトで持っていた物のすべてを持って、エジプトを脱出したわけではないと思うので

す。むしろ必要最低限のものしか持ってこれなかったのではないでしょうか。エジプトを脱出してきたイ

スラエルの民はモーセに導かれてシナイ山のふもとまで来ました。そこでイスラエルの民をふもとに残し

て、モーセは山に登り、十戒を授かり、ふもとに降りて来て、イスラエルの民に、彼ら彼女らを導いてエ

ジプトの奴隷状態から解放してくださった神ヤハウエとの契約を結ばせます。これがシナイ契約です。

出エジプト記20章1節以下に十戒が記されています。そこを見ますと、このように記されています。<神

はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から

導き出した神である。あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造

ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造って

はならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それたに仕えたりしてはならない。わたしは主、

あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだ

りに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない。・・・」(20:1-7)>。

その後に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」から始まって、「父母を敬え」「殺してはならない」

「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲して

はならない」という戒めが続いています。

・この十戒を遵守する(守る)ことが、エジプトを脱出したイスラエルの民が彼ら・彼女らを導いた神ヤ

ハウエと結んだ契約にふさわしく生きることでした。40年の荒野時代には、イスラエルの民は時々不平を

言って、モーセを困らせることはありましたが、全体としてシナイ契約を大切に生きたと言えると思いま

す。それは、荒野時代には、彼ら彼女らを悩ませる誘惑するものが少なかったからです。ですから、エジ

プトの奴隷状態から解放してくれた神ヤハウエを信じ、互いの命や生活を大切にして支え合って生きるこ

とが、完全とは言えないまでも相対的にはできたと思うのです。或は荒野という厳しい生活条件において

はそのように生きざるを得なかったのかも知れません。少なくとも、神ヤハウエと戒めから大きく反れる

ことはなかったのではないでしょうか。その意味で、荒野時代のイスラエルの民の心はまだ濁ってはいな

かったと言えるのではないでしょうか。

・ところが、そのイスラエルの民がカナンに侵入し、定着して牧畜だけではなく農耕を取り入れて生活す

るようになり、部族社会から、12部族の宗教連合へと民族形成をするに従って、イスラエルの民の社会も

王が支配する民族国家に発展していきます。神ヤハウエとの契約に基づく契約(誓約)共同体としてのイ

スラエルと、サウルやダビデやソロモンという王を上に置く王国としてのイスラエルです。預言者エレミ

ヤの時代は、イスラエルの統一王国が南北に分裂して、北は既にアッシリア帝国によって滅ぼされ、南も

エレミヤの最晩年にはバビロニア帝国によって滅ぼされてしまうという時代です。エレミヤの時代のイス

ラエルの民の心は荒野時代のように神ヤハウエとの契約と十戒に注がれてはいませんでした。イスラエル

の民の心は神ヤハウエから離れ去ってしまっていたのです。

・エレミヤは、3章19節で神ヤハウエの思いをこのように語っています。<わたしは思っていた。/「子

らの中でも、お前には何をしようか。/お前に望ましい土地/あらゆる国の中で/最も麗しい地を継がせ

よう」と。/そして、思った。/「わが父と、お前はわたしを呼んでいる。/わたしから離れることはあ

るまい」と。>。しかし20節では、<だが、妻が夫を欺くように/イスラエルの家よ、お前はわたしを欺

いたと/主は言われる>とエレミヤは語っています。

・神がイスラエルの民にかけた期待とその神の期待へのイスラエルの民の裏切り。イスラエルの民の裏切

りが激しく糾弾されています。預言者エレミヤはこのことを曖昧にやり過ごすことはできなかったのでしょ

う。人間の心のあり様を問題にします。心が澄んでいなければ、人間はとんでもない生き方を選び取って

も、平然としているということを、エレミヤは彼の時代のイスラエルの民を通して感じとったのではないで

しょうか。

・4章1節に<「わたしのもとに立ち帰れ。/呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。/そうすれば、再

び迷い出ることはない。」>と言われています。ここに「呪うべきものをわたしの前から捨て去れ」と言

われています。そして<あなたが真実と公平と正義をもって/「主は生きておられる」と誓うなら/諸国

の民は、あなたを通して祝福を受け/あなたを誇りとする>(4:2)といのです。まことの神に従って生

きる人間は、その人自身が祝福されるだけでなく、広く豊かにその祝福を諸国の民に及ぼすと。

・「捨て去れ」「誓うなら」と、イスラエルの民の悔い改めが求められています。そしてエレミヤは、<

「あなたたちの耕作地を開拓せよ。/茨の中に種をまくな・・・」>と呼びかけます。「これまで、バア

ル宗教によって堕落した地方聖所での礼拝は《茨の中に種を蒔く》ようなものであった。新しい次元での、

宗教生活のあり方を捜索(さが)して行こうというのであ」(木田)ります。

・そして最後に、<割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取りされ>と、エレミヤは言

っています。「民族の特色を(男性性器の包皮を切除する割礼によって)身体に刻むことではなく、心の

包皮を取り去って、神の愛への感受性を活性化しなければ、外的な行為の努力は空しく、神の怒りは燃え

広がって消すことはできない」(木田)というのです。

・エレミヤは、一方で「立ち帰れ」と繰り返し呼び掛ける神ヤハウエが、「わたしは背いたお前たちをい

やす」(3:32)とまで言って、イスラエルの民を追い求めていることを語っています。そして他方で、イ

スラエルの民に向かって「呪うべきものを神の前から捨て去って」「心の包皮を取り去れ」と悔い改めを

促しているのであります。

・私は最近上橋菜穂子さんのファンタジーを船越教会と鶴巻の行帰りの電車の中で読んでいます。上橋菜

穂子さんのファンタジーの中には、呪いをかけられた者がよく登場してきます。呪われた者は周りの人た

ちに危害を加えますが、本人の意思ではなく何ものかに操られてそうしてしまうのです。そしてその呪い

から、呪いにかけけられた者は自分では逃れてことはできません。誰か別の人が呪いをかけた者と戦って

打ち勝つことによって、呪いをかけられた者も正気を取り戻すのです。そういう人物が、上橋菜穂子さん

の「守(も)り人」シリーズの5冊目を今読んでいますが、今まで読んだ本には必ず登場してきます。

・この上橋菜穂子さんのファンタジーを読んでいますと、エレミヤはイスラエルの民に「呪うべきものを

神の前から捨て去て、心の包皮を取り去れ」と悔い改めを促しているのですが、イスラエルの民は自分で

悔い改めることができるか、はなはだ疑問に思われます。イスラエルの民は神ヤハウエに向けるべき心を

バールに売ってしまったのだと思います。その意味でイスラエルの民の心はバールによる呪いをかけられ

たに等しいのです。心も包皮がかかって、感じるものも感じられなくなってしまった状態になってしまっ

たのではないでしょうか。

パウロは、ローマの信徒への手紙7章で、自分が罪の奴隷になっていることを告白しています。<「内

なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、

わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります>(7:22,23)と。そしてこのあ

と突然、「わたしはなんと惨めな人間でしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれ

るでしょうか」(7:24)と、死の虜になっている自分自身の惨めな姿に気づいて、「だれがわたしを救っ

てくれるでしょうか」と叫んでいるのです。こういう自分の惨めさが突き付けられないと、そこからの

脱出を私たちは切実に願うということは、なかなかないのではないでしょうか。パウロはこの後、「わ

たしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と語っています。

・ここには、先ほどのエレミヤの預言を超えるものが示されています。エレミヤは、イスラエルの民に彼

ら・彼女ら自身による悔い改めを迫りました。そしてエレミヤが語る神は「わたしは背いたお前たちをい

やす」とは言いますが、それ以上のことはしていません。<ユダの人、エルサレムに住む人びとよ/割礼

を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ。/さもなければ、あなたたちの悪行のゆえ

に/わたしの怒りは火のように発して燃え広がり/消す者はないであろう。>(4:4)と言われている

ことから、それがわかります。イスラエルの民が悔い改めなければ、神は怒ってイスラエルの民を滅ぼす

というのです。

背信イスラエルと神の怒りによる両者の断絶をつなぐ命がなければ、永遠にイスラエルは救われない

のではないでしょうか。パウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と語って

います。そして8章の1節2節で、<従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められ

ることはありません。キリスト・イエスによって命をもらたす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを

解放したからです>と語っているのです。パウロによれば、キリストに結ばれている者は、キリストにお

ける新しい生活に導かれます。ローマの信徒への手が12章1,2節では、<こういうわけで、兄弟たち、神

の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。こ

れこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新た

にして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことで

あるかをわきまえるようになりなさい>と語られています。

・このキリストと結ばれることによる自己変革、他者変革による一つの体を形づくっていくことによって、

あの預言者エレミヤの限界を超えることができるのではないでしょうか。そのような意味で、私たちの心

を覆っている包皮を取り除き、キリストに結ばれて、幼子のような心を与えられて他者と共に、特に助け

を必要とする他者と共に生きていきたいと思います。