なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(19)

船越通信№19   2011年8月14日     
 
  87日の日曜日は平和聖日の礼拝後、役員会が行われました。今回から役員会の前半はテーマ別の話し合いをすることになっていましたので、第1回「信仰のとらえなおしについて」話し合いました。Nさんが司会をしてくださり、レジメに従って皆さんから意見を聞くという形で行われました。レジメは「信仰のとらえなおしについて、①信仰の再活性化はあるのか? ★現状の信仰は何が問題か?★活性化していたことはあるか?★ならばどのような信仰か?★活性化とは何か?★ならば再活性化で何をめざす?」です。主な発言を記しておきます。☆まず「信仰の再活性化」という言葉の理解をめぐって。一つは、これを信仰のリバイバルととらえる人。もう一つは、はっきりとした発言としてはでていなかったようですが、日常生活におけるキリスト者としてのアイデンティティーの問題としてとらえる人の違いがあったように思われます。後者は、日常生活ではあれもこれもとやることに追われて、信仰のことが二の次になりがちであるという問題です。日常の営みが先になり、聖書を読み祈る時間もほとんどない生活をしているとか、無意識の中にはあるが、現実の生活ではキリスト者でありながら神のことは忘れていることが多いという発言も、この問題の表れだと思われます。この問題は日曜日と週日がキリスト者の中で二元論的になってしまっているのではないかという問題でもあります。☆活性化については、洗礼を受けてから自分の信仰が活性化していたことがあるのか?という問いがでました。新しい決意をしたとき、いろいろな出会い、他の人の経験の影響などにより、自分の信仰が燃えていると思えることもあった。決まり切った日常の営みとは違った、非日常的な経験によって、燃えなければと思うこともある。以下出た発言を羅列していみます。・信仰が現実とかけ離れているように思える。各家庭には経済の問題や病気の人を抱えて苦しんでいる現実がある。そういう現実に信仰者としてどう関わるかが問われているのではないか。礼拝に出ていて、最近礼拝にも来たことのある青年がいる。彼のためにどれだけ祈っているのか。彼のことを礼拝に来ている人から聞かれることがない。伝道が冷えているのではないか。・確かに出会いを大切にし、身近な一人一人に対する祈りをしていかなければと思う。・理屈として納得している信仰ではなく、霊的な感性に目覚めて行くことが、信仰の活性化につながるのではないか。・信仰そのものは個人と神との関係ではないか。信仰の活性化とか再活性化ということが、すーっと自分の中には入ってこない。・再活性化というのでれば、同じ信仰をもつ者が集まっている教会の活性化なのか。個人の再活性化なのか?・キリスト教ではないイスラムの人たちはその信仰が生活をかけて燃えている人もいる。・活性化は証しではないか。ただ証しには嘘が入る危険性がある。その人の生き方そのものが証しではないか。☆活性化は何をめざすか?・船越教会としては、一人ひとりの課題や取り組みが証しであるが、それぞれの担っている課題のジャンルが違っているので、むりやり一緒にするのは無理である。・最近父の命日があり家族のみんなと墓参りした。父の一生を振り返って考えさせられた。自分の一生が見えてきた(後何年?)。何のために生きて来たのか。生かされてきたのか、もう一度考えてみようと思って、改めて人間は関わりの中で生きていること、一人で生きているのではない。交流を求めている。ITでも交流がテーマでもある。自分なりの整理をしなければと思っている。自分の生き方を検証することではないか。
  以上、結論がでたわけではありませんが、それぞれの発言を想い起して、各自対話を深めていただければと願います。いずれ一通りテーマ別の話し合いが終わった段階で、今までの船越教会の歴史を踏まえて、今後の船越教会の宣教の在り方にについてみなさんと話し合っていきたいと思っています。次回9月は「聖書をどう読むか」で私が発題司会します。乞ご期待。
  87日の平和聖日のメッセージは、マタイによる福音書59節「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」からでした。「福音と世界」9月号の「随想メッセージ 聖書と現実の往還から 平和を造り出す人々は、幸いである」と内容的に重なっています。イエスは平和のイメージをもっていたと思います。そのイメージはイザヤ書11章の「狼は小羊と共に宿り、…」の平和のイメージではないかと、私は想像します。イエスは逮捕の場面で、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言って、彼を捕らえに来た人たちに剣で向かおうとした人を諫めています。イエスの平和はシャローム。人間の中に支配被支配、抑圧被抑圧・差別のない、神の下に皆対等同等で、それぞれの命は満ち足りた生をいきることができる。イエスはその平和を、平和とはかけ離れた差別抑圧によって分断されている人々の中で、「最も小さくされた人」との共生によって実践されました。神の国の到来として。3人以上の関係は社会的な関係で、自分の自分に対する関係と一対一の対の関係とは区別されて考える必要があります。社会はその構成員である人間の総数によって成り立っています。ですから、現在67億の人間がこの地球にいるとすれば、囲碁の碁盤の星にたとえれば、67億の星がある碁盤が現代の世界です。最も小さくされている人にみんなが仕える世界であれば、権力や資本の横暴はありません。一つの星として存在する私たち一人一人は弱く小さくありますが、一つの星が変われば全体も変わっていくのです。