以下で何冊か残されている父の作品ノートの一冊が終わります。このノートは随想日記と背表紙にある原稿用紙が本になっているものです。最後の作品のページの中央欄外に「契約 ベリース」とメモ書きがあります。このメモ書きは私の字です。この随想日記の裏表紙を開けた最後のところに「三鷹市井口246 電話(武蔵野)四五―四一八五 寮 北村」と、これも私の字で記されています。両方とも、多分父から聞かれて書いたものではないかと思います。この随想日記の発行は昭和40年12月1日となっています。1965年です。私が東京神学大学(東神大)の寮にいたころです。まだ三鷹の国際基督教大学(ICU)の敷地に移転する前です。その頃東神大は井の頭線の井の頭公園駅から少し入った牟礼というところにありました。その場所を東神大は東京女子大に売り、基金をつくってICUの敷地内に移っていきました。私は1967年4月3日に大学院に入った時に結婚して、その後は横浜の大倉山のアパートから東神大に通学しました。1969年3月東神大を出て、最初の教会に赴任しました。その翌年の1970年に東神大の機動隊導入がありました。約40年前のことですが、その頃の時代が現在までの私自身に決定的な影響を与えていると思います。
父北村雨垂とその作品(31)
はねのあるひとは私の 夜間 ( よる )に来る
ハネのあるヒトは 私の晝間 ( ヒル )に来る
零時が創 ( う )んだ 二十世紀 ( アルトキ )の神話
忘却 (ぼうきゃく)の淵こそ はねのあるひとを
心臓が 血を噴く(吐く)はねのあるひとだ
ナヘのあるヒトが静かに 蜜を吐く
白壁に おどるは ハネのあるヒトか
はねのあるひとはピアノに駆けだした
ハネのあるヒトは胡弓 ( コキュー )に踊りだす
歴史の爪 ( ツメ )に 人臭 ( ひとくさ )き 月
あれから 月にひとくさき爪 ( ツメ )
ハネのあるヒトに 楽しい 夜の舞(眞珠の舞)
はねのある ひとに眞珠の くすり指
祖国孵 ( かえ )る 夢に還らぬ夢を抱く
髭のアル稲子 ( イナゴ )は 殺 ( コロ )せミヅホの民
悲劇の核に ひかる 鍵盤
悲劇/喜劇の/核 ( かく )/光る/鍵盤