なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(48、復刻版)

今朝鶴巻を6時前に出て、神奈川教区の拡大社会委員会に出る前に船越教会に寄り、必要な仕事をしました。休日だというのに小田急も結構人が乗っていましたし、相模鉄道京浜急行も満員に近い状態でした。朝早い時間ですのに、びっくりしました。レジャーの人やクラブ活動の高校生たちもいましたが、勤めに行くのではなかいという人も結構いました。
 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信」(48、復刻版)を掲載します。

  黙想と祈りの夕べ
   (通信 48 2000・ 8・27発行)

 20日の礼拝には久しぶりにT兄が出席しました。この日は聖歌隊の合宿の後半が教会で行われ、他には何も集会がありませんでしたので、T兄とお昼を一緒に食べました。彼は足の怪我のために、まだ歩行にも相当気を使わなければならないようで、毎日の勤めの往復に苦労しているようです。土日は休みだそうですが、なかなか日曜日教会に来れず、残念がっていました。T兄だけでなく、教会に連なる青年の中には心身に弱さを抱えながら、それぞれの道を歩んでいます。その一人一人が支えらるように祈っていきたいと思います。この日の礼拝説教で引用しましたハワ-ワスの言葉を記しておきたいと思います。 「第五の戒め(殺してはならない)は、ひとえに教会という平和の共同体に対する要請という文脈の中で初めて、中絶や、自殺や、安楽死キリスト者には禁じられた行為であると理解できる。キリスト者は自分たちの間にこのようなことがないように自らの生活を律していかなければならない。私たちの間では生きる希望を失うような絶望的孤独を体験する人がいない状況を形成していかねばならない。病人を十分な介護と愛で囲むことによって、その病人が安楽死を考えないで最後をまっとうできるようにしなければならない。その誕生がうとまれる胎児を造らないように本能をコントロ-ルしなければならない。不幸があったからといって自分の命を断ったり、社会の役に立たなくなったからといって老人を厄介者扱いしたり、まだ生まれもしない胎児の命を断ったりするということは、信仰共同体においては全く意味をなさないことである。神が存在し、私たちの命がその神のものであれば、このような行為が許されてよいはずはない」(「福音と世界」、2000・9)。

 一人一人の命の尊厳が本当に重んじられる共同体として、私たちの教会が現実社会の中で灯台のような存在でありたいと願います。 以上のような「分かち合い」での私の感話に続いて、一人の姉妹が、その日の朝に放送のあった「ようこそ先輩」を観て、その感想を話してくれました。写真家の藤原新也が先輩で登場し、子供たちに自分のきらいなもの、いやなものを写真に撮らせ、その出来上がった写真をいろいろな角度から見させます。お墓の写真を撮った子は、そのお墓を上から見ればいいじゃない、と言う藤原新也の言葉に本人も共感し、こんなお墓なら入ってもいいな、という程にまで変わるのです。姉妹は以前、「枯れかかった花はいやだわ。自分を見るようで…」と言うお年寄りの女の人がいて、その言葉を聞いてからは、自分も草花が好きで世話しているが、枯れた花や花柄をつんでおこうと思ってきた。けれども、今は枯れて、死んでゆくというのは、何ら特別なことではなく、自然に思えるようになった。教会の敬老祝会についての懇談会でも問題になっていたが、小さな時や若い時に亡くなる人も、命においてはどの人の命も変わらない。たまたま長生きした人だけが祝福されるものではない。それぞれ違っていて、みんなが調和が取れていればよい。枯れてゆくことも自然のこととして、恥ずかしいとか見たくないというのではなく、そのものとして受け入れたい。さまざまな他者の命との調和の中で自分も精一杯生きてゆきたいと思うと。

 また、2週間の初めての海外旅行から帰ってきたばかりの姉妹は、旅行中小さな失敗を繰り返したが、不思議と守られて無事に帰れて感謝で一杯ですと、一言いわれました。
 8月も終わろうとしています。少しゆるんだ体と気持ちを引き締めて、9月に向かいたいと思います。