なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(53)

 今日は私が神学校を出て赴任した最初の教会の一人の教会員が帰天し、その葬儀に足立区まで行くことになっています。その方は昔の電電公社に勤めていて、体力のある方で、教会での力仕事は彼が一人でしていたと記憶しています。退職後会社から費用をもらったからと、飛騨高山への旅行の途中、当時私が牧師をしていました名古屋の御器所教会にも寄ってくれたことがありました。教会の若い夫婦に子どもが生まれ、2,3歳になって教会に連れてくると、その子を高々と放り投げて抱きとめるのが、この人の十八番でした。泣く子があり喜ぶ子がありでした。先週も紅葉坂教会の一人の教会員の葬儀に出かけましたが、以前牧会した教会の方の葬儀が2週続くことになります。ご遺族の上に主にある慰めをお祈りいたします。
 今日は「父北村雨垂とその作品」(53)を掲載します。
   
          
        父北村雨垂とその作品(53)

アポロンも嫌いゼウスも嫌いな富士の風格

富士が小さくみえるクレーン

富士にうづまく風雪とうづまく思想と

富士をみろ歴史を知らぬ季節がある

富士は空虚に向って大きな口を開けてゐる

富士も弦月も黙ってゐる不安な平和

窓から富士がみえぬ日の憂うつ

紫の富士が傳説を生む夜明け

杖の汗鉢巻の汗みて富士を見ぬ

富士はふもとの現実を非定も肯定もしない

歴史の断層を夏の富士がみた

哀愁のない富士である死なぬ

富士にコンパスは要らぬドルも要らぬ

庭の鶏頭が富士に背のびした

たいふうがくるぞ豪華な富士をみろ

富士に愛着も父も祖母も素朴

雄大な単調をみろ富士をみろ

黒いZ機も富士は知らぬ様子

富士といふ名で銀行から床屋まで

でんとした富士のおろかなつらがまえ

富士がグルグルまわるではないかグラス

虚無には勝てぬ富士の存在

感傷の大海原に富士が消えた



誰が胸を借りて泣こうとおみなえし

無風にゆらぐ桔梗の舞台は悲劇の歴史

切々と語るは恋かなでしこの

俊寛は泣きあかしたか月見草

ふたごころなくねむの花散る

ばんざいをして朝陽ばんざいをした夕陽

ラッパ率(ソツ)百合(ユリ)の小平が背延(せのび)した

夜あけのねむに落ちたかんざし

ロマンスは源氏ぼたるの点と線(せん)

なでしこの河原にひとり想いつめ

舞えば自覚を妊む能面

釋迦(シャカ)も素足キリストも素足大地行く

虹をみるとのさま蛙がま蛙

虹に駆けるおんなの魂(たましい)かも知れぬ

樹は枝に体臭走るみどりの精子

造反の男女にかさこそと落葉

議事堂をみて来た社の烏(カラス)達

深淵にひとつの顔が泣く笑う

梅雨(つゆ)の舗道を人形の首

鏡に描いた風化した顔

娘ごころをみてるあじさい(花のあじさい)

老の掌に萩遊ばせて悔多き