なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(63、復刻版)

 27日から今日の午後4時過ぎまで、私は滋賀県に二つの所用があって行って来ました。一つは、生前私の敬愛した牧師の一人のYさんの追悼記念会として、Yさんは暮れに突然帰天しましたので、毎年Yさんを慕っていた方々が有志でYさんを偲ぶ会をしているのです。偲ぶ会と言っても、それなりの勉強会を兼ねていて、今回は雄琴温泉で行いましたので、M先生による「コプト教会につて」の講演もありました。私も裁判について短い発題をしました。雄琴温泉は1967年の夏に、私が東神大の大学院1年生の時に夏期伝道で岡山蕃山町教会に行った帰りに、大学院に入る時に学生結婚した連れ合いと待ち合わせていったことのある温泉です。温泉街はその頃の様相とは大分変わっているように思いましたが、温泉の泉質は優しい感じで、美肌になると宣伝していますが、なかなか良い感じでした。

 この会の後に滋賀にいる友人夫妻を訪ね、一泊させてもらい、久しぶりに二人で夜中まで囲碁を楽しみました。

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信」(63、復刻版)を掲載します。

      黙想と祈りの夕べ  (通信 63[-11] 2000・12・10発行)

 私が、5年8ヵ月前に当紅葉坂教会に名古屋から着任した頃、M兄は大磯の東海大学付属病院に、脳出血の後遺症でか、半身不随で言語治療を受けていました。ちょうど去年の今頃突然に召されたT姉が心臓の病気で同じ病院に入院していましたので、着任してからしばらく経った時に、お二人を見舞ったことがあります。それ以来、M兄は車椅子の生活で、夏と冬に老人保健施設に入り、気候のよい春と秋は自宅での生活を繰り返していました。けれども、今年の夏が来る前に、顔に皮膚癌ができ摘出手術を受け、その段階で肺にも転移があり、年も年なので肺の手術はしないことになりました。そうこうしている内に、若い時の結核の再発かもしれないと、南横浜病院で検査を受けました。その検査は白で、退院し自宅療養に移った矢先に、痙攣が起き、意識を失って入院しました。一昨日私が病院に見舞った時には、意識も戻っておりました。半身不随でのM兄の車椅子生活は、私が関わってからでも約6年に及びます。M兄のお連れ合いも属する教会は違いますが信仰者です。神に委ねてつつ、これからの一日一日を過ごしたいと申しております。

 先日お訪ねした、もうすぐ90歳になる姉妹は、誰かの言葉だがと言って、「人生の最大の不幸は老いである」と、しみじみと言われました。自分は死ぬことは恐れない。神に委ねられると思う。しかし、老いを生き抜くことは厳しい、とおっしゃるのです。転ばないように注意深く、一歩一歩歩いている姉妹の姿を見て、彼女の言葉の重さを感じさせられました。

 こういう諸兄姉が、私たちの教会に連なる方だけでも相当数います。それらの諸兄姉を忘れずに覚えて祈っていきたいと思います。 以上のような私の話に続いて、一人の姉妹が以下のようなお話をしました。先日召されたT姉の四十九日の法要があり、生前T姉とこじれにこじれた関係にあったお兄さんが千葉から菓子折りをもって来られた。私は大変嬉しかった。その私以上にお兄さんもうれしさと平安な気持ちをもって出て来られていた。あれだけこじれていたのに、この時の安らかなお兄さんの顔が忘れられない。神さまがなしてくださる業としか思えなかった。信仰から来るものと感謝でいっぱいでしたと。

 また別の姉妹は、先週の「黙想と祈りの夕べ」での「分かち合い」で話されたM姉の末期癌の友人のような方が、自分の周りにも多いと、以下のようなお話をしました。先程読んだ聖書の箇所(ロ-ズンゲン、12月3日の詩編とマタイ福音書)から、「迎える」と「待つ」の違いを感じた。「迎える」は、お客を迎えるときのように、あれこれと自分が備えるという面があり、能動的な意味合いが強い。それに対して「待つ」は受動的な面が強いように思える。イエスエルサレム入場を「迎えた」群衆は、その後イエスを十字架につけてしまう。自分の周りには「待つ」という人がたくさんいて、祈りの中でその時を待っておられる。あきらめというのではなく、神の時を待ちつつ、平安を祈り求めているのではないか。私自身は、あれをしたりこれをしたりして、どちらかというと「迎える」という面の行動が強いように思うが、自分も「待つ」という時をもち、待っているたくさんの方々の顔を浮かべながら祈っていきたいと思うと。

 誰れかが、人は大きな不幸を背負って小さな幸せを喜びながら生きるものだ、と言いました。さまざまな方々の人生に触れれば触れるほど、そのことが実感として感じられるようになりました。