なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(38)

    マルコ福音書による説教(38)マルコによる福音書9:30~37、
                   
・私たちの中には、人間を上下によってみる序列の考え方が根強くあります。ナンバーワンとか、ナンバ-ツ-とか、よく言われます。この世の中では、そういう序列で人をみるが当たり前になっているところがあります。今日の私たちの社会は、ある面で企業社会であります。自営業や自由業で生活している人の比率は、全体からすると僅かです。圧倒的に会社に勤めて生活している人が多いのです。会社のトップは社長とか会長です。そういうトップから平社員まで、常務とか部長とか課長というように、ある主の序列があります。私は、名古屋にいましたとき、豊田という町が近くにありました。そこに教会がありました。その教会に来ている人のほとんどは、自動車の会社でありますトヨタに勤めている人だそうです。その教会の牧師と話したことがありましたが、会社での序列を意識しないで、教会での交わりを結ぶことが、大変難しいと、おっしゃっていました。勤めているのは男の人の場合が多いのですが、妻や子供にまで、夫や父親の会社での序列が微妙な関係を強いるというのです。中には、そういうことがいやなので、豊田に住まないという人もいましたので、そういう関係のきつさを感じさせられました。

・この社会的な序列で人間をみるということは、私たち日本のような資本主義社会以上に、かつてのソ連や中国などの社会主義の国も強よそうです。権力構造が共産党独裁という形をとっていますので、ナンバ-ワン、ナンバ-ツーがよりはっきりと現われるのでしょう。スタ-リンの時代には政敵がつぎつぎに粛正されたと言われます。そういう序列で人間をみる見方から、本来最も遠いはずの教会の交わりにありましても、そのような見方で人を見るということが起こり得ます。社長だとか医者だとかが偉く見られるこの社会の序列の関係が、そのまま教会の中に持ち込まれることもあります。その人の社会的立場によって教会での発言権の強さに微妙に影響するという場合も起こり得ます。それだけはなく、教会の中にも牧師を中心とした序列的な人間関係が生まれるということがあり得ます。しかも、そういう関係が現にあるということだけではなく、それぞれの人の心の中にみんなが「偉さ、(トップ)を」求めるということがあるということなのです。

・イエスの弟子たちは、イエスから二回目の死と復活の予告を聞いたとき、「「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と言います。第一回目のときに、即座に弟子の代表格であったペテロが、イエスをわきへ引き寄せて、そんなことを言ってはいけないといさめました。その時、ペテロはイエスから逆に最大級の言葉で叱られてしまいました。「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8:33)と。そのことがあったからか。それとも、なぜイエスが苦しみを受けて、殺されてしまうなどということを繰り返しおっしゃるのか。今日のところに記されていますように、その真意が分からなかったし、その真意を聞くのが怖かったからでしょうか。弟子たちはイエスについて行けない何ものかが自分たちの中に生まれていることを感じていたのでしょう。マルコによる福音書によりますと、そういう弟子たちが、イエスから死と復活の予告を聞いた後、イエスと共にカペナウム行く途中で、「だれが一番偉いのかと論じ合っていた」というのです。

・ひとりの人を徹底的に大切に(愛)し、そのひとりの人に仕えるが故に、死を先取りして生きていたイエス。そのイエスと行動を共にしていた弟子たちです。その弟子たちが、「だれが一番偉いのかと論じ合っていた」というのです。彼らは、そのように互いにだれが一番偉いのかと論じ合うことによって、イエスを全然理解していない自らの姿を顕にしていました。弟子たちは、ピラトのような総督をはじめとるロ-マの高官、祭司長、長老、律法学者たちのように直接イエスを殺そうとした勢力に属しているわけではありません。イエスと行動を共にしていて、むしろイエスの同伴者でした。しかし、その同伴者としての弟子たちが、イエスとは全く違う方向に生きようとしているとすれば、はじめからイエスに反対者としてイエスに敵対している人たちよりも、それ以上に、イエスに対しては犯罪的であると言えるのではないでしょうか。弟子になることによって、自らの社会的には満たされなかった名声を得ようとしていたということでしょうか。

・弟子たちは、そういう自己の深みにある歪みを切開されなければ、本当の意味でイエスの弟子にはなれないのです。その意味で、このイエスに対する弟子たちの無理解の内容が明確にされていくということは、必要不可欠な事柄でした。イエスはご自身の生き様を通して(その徹底的な愛と仕えにおいて)、弟子たち(私たち)自身の自己認識を開かしめます。つまり、イエスと関わりなく生きていた時には、自分の問題性に無自覚でありえたのですが、イエスを知ることによって、自分自身の本質がはっきりと露呈してしまうのです。どんなに自己弁護をしたところで、イエスの前に立つと、我々もまた、全く「誰が一番偉いのか論じ合っていた」弟子たちと同質の人間であるということが明らかにされます。《仕える》生とは反対の生を生きているのです。

・後の弟子たちの裏切り、逃亡がイエスと反対の生を生きていいた弟子たちの姿でした。結論から言えば、イエスの生きざまは、ひとりの幼な子のような、小さな人間を、徹底的に大切に(愛)し、その人に仕えたのです。ひとりの人を、特に、イエスが大切に(愛)し、仕えた人々は、罪人(律法違反者)、遊女、取税人、病人(らい病人)など、社会のなかで差別されていた人たちでした。彼らを徹底的に大切に(愛)し、仕えるということは、自分の命をかけなければ、出来るものではありません。何故なら、彼らを徹底的に大切に(愛)するということは、そういう彼らを差別しているその社会の体制、そしてその体制の上にのっかって生きている人たち、つまり、イエスの時代では、長老、祭司長、律法学者などでうが、そういう人たちを告発することになるからです。それ故、その体制を支配している人たちからの反発を強く受けることになります。長老、祭司長、律法学者などがイエスを殺そうとしたのは、まさに、そのような理由からです。事実イエスは、そういう人たちと彼らにだきかかえられたロ-マの官憲によってあの十字架にかけられて殺されたのです。

・イエスの死と復活の第二回目の予告の言葉の中に、「人の子は、人々の手に引き渡される」という言葉があります。この「引き渡される」という受け身の言葉は、イエスの受難の事実を要約する原始教団の用語だったと言われます。この言葉には、「任せる」という意味もあります。マタイによる福音書11章27節に、イエスが語られた言葉として、「すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかには子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とあります。ここの「すべてのことは、父からわたしに任されています」の「任されています」が「引き渡される」と同じ言葉です。ですから、「引き渡される」とは、イエスを祭司長、長老、律法学者等の意のままに任せられるという程の意味でしょうか。そして、「引き渡される」という受け身の形は、この出来事において行動するのは神ご自身だということをも暗示しています。

・「人の子は、人々の手に引き渡される」という表現の中には、一つの語呂合わせがありますが、これは、「人間の内の一人なるイエスが、人々に対立し、彼らから棄てられるという秘密を、強く印象づける語法である」と言われます。そのことによって、私たちの中に「一人の子供を抱き上げて示された」イエスの新しい人間性が啓示されています。「偉さを求めるために人を排除するあり方ではなく、ひとりの子供をイエスの故に受け入れること」です。それは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(「もし人が筆頭の者になりたいと思うならば、彼は万人(ばんじん)のしんがりに、万人の奉仕者になるだろう」(この未来は命令)というイエスの教えに明示されています。

・イエスの十字架に極まる全存在によって、弟子たちは自らの根にある「偉さ」への執着から、その情念の向けどころを、一人の小さな、無力な者を受け入れることへと変えられるのです。それは自分自身がそういう小さな、無力な者として神に、そして多くの人によって受け入れられていてこそ、いまあり得るということへの感謝でもあります。それ故、これは単なる倫理命題ではありません。人間としての根本的な有り様なのです。

・最も小さな人を受け入れて大切にすることは、すべての人を大切にすることに通じます。一部の特権的な人はそのことを受け入れず、格差を当然のことと考えるかもしれません。イエスは最も小さくされた者の立場に立つことによって、すべての人が神の下に対等平等であることを明らかにしているのです。そのようにして、私たち一人一人に、神の下に生き神の支配としての神の国の住民としての私たちを取り戻してくださっているのです。