なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(40)

       マルコ福音書による説教(40)、マルコによる福音書10章1-12節
          
・マルコによる福音書の10章1節に、「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた」と記されています。この部分は、福音書記者マルコの編集句とされています。編集句は、福音書記者マルコが言い伝えられていたイエスに関するいろいろな伝承を基にマルコによる福音書を書いたとき、彼が得た伝承にコメントを入れたり、伝承を繋ぎ合わせるためのマルコ自身が書き加えた状況設定にあたる部分などを言います。

・その10章1節によりますと、イエスの活動が、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側」にまで広がったことが語られています。そのことによってマルコは、イエスと共に始まった新しい時としてのよろこびの音ずれは、コロニ-のように他と区切られた一定の場所だけにとどめられるものでないことを語っているのであります。イエスは、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイ11:11)と語られました。つまり、新しい時は古い時との衝突において、古い時と並存し、調和するようなものではなく、古い時に打ち勝ち、それを凌駕することによって、この地上に始まります。ですから、福音が語られるとき、古いもの(律法)によって生きている者が告発されることになります。その告発を受けて、古いものに依存して生きていた者が悔い改めて新しくなることが求められているのです。そのようにして新しい時に生きる信仰者が生まれるのです。けれども同時に、なお古いものに依存している側からは抵抗が起きます。そのようにして、福音が真に福音として語られ、聞かれるならば、そこに波風が立たざるを得ません。

・それ故、イエスの言葉と行為は、自ずから論争を生みました。イエスはそれまでの人間の言い伝え、常識、既成の組織、そのようなものに新しい光を投げ掛けました。今日のマルコ福音書10章1節以下では、離婚に関するファリサイ人との論争が記されています。このような論争物語の背後には、新しく誕生したキリスト教会が、ユダヤ教の影響力の中でイエス・キリストの福音によってそれにふさわしく生きていこうとしたとき、そこに生じた具体的なユダヤ教との対立という問題があったのでしょう。つまり、キリスト者は離婚に対してどう考えるべきか、イエス・キリストはこの問題に対してどういうふうに答えているか、というユダヤ教の側からの問いです。

パウロもまた、汽灰螢鵐硲珪呂芭ズГ量簑蠅某┐譴童譴辰討い泙后マルコによる福音書パウロにおいて共通にみられる基本的な点は、現実の問題に対してイエス・キリストはどのように私たちに語っているか、というその姿勢です。つまり、キリスト者が生きていく中で出会う個々の具体的問題に対して、常識的に処理するのではなく、特に人間関係に関わる問題に対しては、まずイエス・キリストの福音は、この問題に対してどういう方向を指し示しているか、という問いが立てられ、そしてイエスが示すその方向に従って生きて行こうという信仰であります。

・当時の離婚に関する伝統的な考え方は、旧約聖書申命記24章に従っています。「人が妻をめとったり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったとき、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる…」。つまり、ユダヤ教の権威である律法は、条件付にしろ離婚を許可しているのであります。今日のマルコ福音書の個所で、ファリサイ人が答えている通りです。しかし、イエスは、そのような伝統的な考え方を否定します。離婚を許しているモ-セ律法は、人間の心のかたくなさ=不信仰=という事実(現実)に立って、そういう人間のために書かれたものであると。つまり、離婚に関する律法の定めは、神の定めというよりも、人間の心のかたくなさという現実に合わせて、人間的に作られた定めであって、本来の神の定めではない。むしろ、より根源的な神の定めは、結婚という事柄の中にこそあるというのです。

・『神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』。

・この結婚についてのイエスの言葉は、パウロも認めているものです。コリント第一7章10節以下で、パウロはこのように述べています。「既(に結)婚(している)者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。~既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。~また、夫は妻を離縁してはいけない。」

・ここに、「こう命じるのは、主です」とあります。これは、一度結婚した男女は離婚をしてはいけませんという教えを、パウロが主イエスの命令として受けとめていたことを意味します。パウロがそのように語っているということは、この「離婚してはいけません」という教えが、主の教えとして初代教会に広く言い伝えられていたものと考えられます。もしそうだとしたならば、イエスはこの「離婚してはいけません」という教えをどんな脈絡で語られたのでしょうか。もしこの教えを絶対的な命令として、どんな場合にも結婚した男女に当てはめられるとするならば、場合によっては随分非人間的なことにもなりかねません。結婚して夫の虐待に苦しむ女性が、一度結婚した以上は絶対に離婚してはならないということになりますと、その女性は悲惨そのものとしか言いようがありません。そんな風に、なにがなんでも一度結婚した以上離婚はできないと、イエスが教えられたとはとても思えません。

・先程の申命記のところに、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」とありました。みなさんは、ここに言われている「恥ずべきこと」の内容はどんなことだと思われますか。イエス時代のパレスチナユダヤ教には、二つの学派があったと言われます。シャンマイ派とヒレル派です。この「恥ずべきこと」について、シャンマイ派は不品行と解釈し、不義と姦通が唯一の離婚の理由とされたと言います。ヒレル派の方は、他のいかなる理由も離婚の理由になると考えたそうです。たとえば、下手な料理、粗野な口のきき方、夫が感ずる妻の不快の一切が離婚の理由になったと言われます。

・このマルコによる福音書の記事によりますと、12節に「夫を離縁して他の男を夫にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と言われていますように、女の側からの離縁もあったことが考えられますが、実際には圧倒的に男の側からの離縁が多かっただろうと思われます。しかも女の人が男の所有物のように考えられていたわけです。そういう状況の中で、このイエスの言葉が語られたのであります。

・「あなたがたの心が頑固なので、このような掟をモ-セは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

・創世記を見ますと、アダムを造られた神は、「人はひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と言って、野の獣と空の鳥を土で造られたが、その中にはアダムにふさわしい助け手が見つからず、「アダムを深く眠らせ、彼のあばら骨の一つを取って、それから女を造った」と言われています。このような男と女が一体となるべく定められた結婚という事柄において、人間が共に生きるときに、真実に人間となるというのです。この結婚において人間存在の基本的なあり様が示されているのです。共に生きるとは、それぞれが自分を他者に与え仕えるというがなければ成り立ちません。この自分を捨てて他者に仕えることによる共同の生が人間を人間たらしめるということなのです。人間の現実に即するならば、離婚を許可したモ-セ律法の方が、より現実的な定めのように見えます。不品行?(女でも男でも)は、どんなにそれを禁じても、なくなりません。今も世の夫婦の実体は、むしろ、真実な愛によって成り立っているよりも、利害関係でくっついているように見える場合も多いのです。

・マルコによる離婚問答においてイエスが私たちに語りかけていることは、支え合い、助け合い、共に生きる人間こそが、神の祝福された命を生きるのだという神の招き(定め)ではないでしょうか。現代では異性愛者のカップルだけが結婚かという問いかけがあります。伝統的な狭義の男女カップルの結婚だけを、このイエスの物語に読みこむとすれば、その枠組みを超えているカップルが否定され排除されてしまうでしょう。保守的なキリスト教の中にはそのような立場をとっているところもあるかも知れません。けれども私には、結婚における夫婦一対の関係は、私たちが生きていく時に欠かすことができないあらゆる他者との(一対一の)対の関係の原型のように思えてなりません。愛し愛されるという関係の中で、多く愛された者は多く愛することができるのです。私たち人間は、互いに仕え、支い合い、助け合い、愛し合って生きることに召されているのではないでしょうか。「人はひとりでいるのはよくない」は、現代の孤独死やひきこもりを裁くことばではなく、共に生きる豊かさへの招きの言葉であることを見失ってはならないと思います。そして今日の離婚問答もまた同じではないでしょうか。