なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(93)

 今日も「北村雨垂とその作品(93)」を掲載します。

 明後日が私の裁判の日です。傍聴席98席は満たされそうです。私の主張は、本来聖餐のような教会の教義に関わる問題は、法によってどうこうという問題ではないということです。福音と法ということからすれば、福音は法を超えています。「人は安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにある」(マルコ2:27)というイエスの言葉にもそのことが明らかです。
 
             父北村雨垂とその作品(93)

     川研 390 六月號 1982年(昭和年)6月

 あだし野に 青春の骨を問う風に

 おしゃべりな婦が独り憎む 夕陽

 菜の花か こよい狐も嫁に往く

 時計が 数珠(じゅず)が 導師の袈裟に見え隠れ

 神も ことばも 共に 生死も力学に


     川研 393 九月號

 紫陽花の青きを雨に叱られて

 稲妻のまさしく嫁の郷里(さと)あたり

 賛美歌は星座に ステージを葛の葉に

 浪々と犬 コスモスを嗅ぎ 去りぬ

 蓮の実の 惨たる蓮の葉と 蓮田

     
     川研 392 八月號 

 パレットに躍(おど)る言葉に とつおいつ 

 ひよつとこおかめで 鉄の扉が開くか

 父よ母よと 涙に染めた 眞紅の月

 産婦人科(ひげき)の病室(ぶたい)の窓の 祝福

 太陽(ひる)が生れ 月(よる)が消された ー 大洋に聴け
 

     藍 16 1982年7月

 神の大地に 修羅 修羅 国旗など 阿修羅

 鉄板にゴロンゴロンと 居直る骨

 コッツコッツと振り子 生死の中間(あい)の振り子 

 蒼空を握るか 霧の縄梯子 

 洞窟の鬼はサーカスなどして 昼間

 一握の土は鉢から「春の舞ひ」

 祭壇の羊 媚びたり 白い煙り

 丘を駆ける児等を風とも天使とも

 川研 三月號  399 1983年(昭和58年)3月

 陸を歩けか鯰は髭を置き去りに

 昏々と降る雪 アナキストの夢など

 闘争の宝庫と観るかシベリヤを

 誰が聴く般若の蒼白き鼻りょう

 龍謄の枯葉を浴びて陽を浴びて