なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(92)

 今日は「父北村雨垂とその作品(92)」を掲載します。

 下記の父の句の中に、「レーニンもカウッキーも踏絵、それも踏絵」とあります。踏絵と言えば、遠藤周作の「沈黙」を思い出しますが、踏絵によっては踏んでしまってもかまわないものもあるでしょし、これは絶対に踏んではならないというものもあるでしょう。昨今の教育現場では「日の丸・君が代」の問題が深刻です。強制を強めれば強めるほど、面従腹背の人が多くなるに決まっています。権力はそれでも統制と支配のためには強制を強めていくに違いありません。日本基督教団にあって、最近の教団執行部の姿勢は権力と変わりありません。違いを認めようとしないからです。そのために本来主体的な讃美告白であるはずの「信仰告白」を踏絵に使っています。また「教憲教規」を日本基督教団の枠組みにして、その遵守を踏絵にしています。これでは教団に未来はありません。聖書を読みイエスに従って生きるのは、現代の状況の中ではどのような在り方と生き方になるのか。性別の違い、年齢の違い、出身神学校の違いを超えて、その多様性を認め合い、自由な相互批判によってより真実を求めて共に励まし支え合う仲間として歩むことではないのか。その信仰の仲間同士の中に面従腹背というエートスがはびこったら、仲間になんかになっていられるものではないでしょう。今の教団の現実をイエスはどう見ているのでしょうか。そのイエスのまなざしを意識しながら、私は裁判に取り組んでいきたいと思っています。イエスは、お前何ををやっているのかというまなざしで見ているに違いないとは思いますが・・・・。             

                父北村雨垂とその作品(92)

     藍 15  1982年4月

 十字架の奴隷は 辞書を見失う

 寝台に まだ見ぬプロクルテスの魂(ゆめ)

 天秤(てんびん)棒(ぼう)に曽祖父「右ェ門」と 納屋の端に

 落ちこぼれたり 童女よ 松葉ぼたんたり

 誰か聴け 大地の魄(おに)を 梅雨の夜に

 燦々と 月が 涙を能面に

 ペンギンの 端然として 阿呆とも 

 端なくも 秒針 無心 萩を往く 

 灰色の太陽をみて 死ぬか

 千人の針が 宇宙(うちう)を駆けめぐる

 鉛色(にびいろ)の夕べに 鐘を衝く 狐

 レーニンもカウッキーも踏絵 それも踏絵

 竹林や 「心」と尼僧 一字のみ

 煌々とメロン 北吹く街の猊(かお)

 透きとおる梯子を登る 今日(けふ) 明日(あした)

 一握の夢を 子におく 夜明けとも

 大海に石を浮かべて 勝つ 計画(つもり)

 紫陽花と血に眞(しん)実(じつ)を聴く 狐(きつね)

 陽も月も 拝(おろ)がまぬまま 鉢の花


     川研 1982年(昭和57年)5月  359

 さんさんと月が涙を 母かとも

 端無くむ 日誌の孵る 深夜(よる)に会う

 逃亡の魂(おに)は 埴輪を 道連れに

 泰平の天に 蓑(みの)虫(むし) 宙釣りに

 戦争も 平和も 朝も 夕べも 風車



     川研 四月號  388

 剥裂の言葉は辞書に在り 跳ばせ

 狂気と駆ける 雲間の月を 見据える野犬

 呱々と放つ 十月十日目の 欠伸

 秒針も のびのび歩るく 時計の夢

 誰か聴け大地の魂胆(おに)を 梅雨の夜に
 (本作品は藍15と重複するが、藍では魄の一字であり、実際は魄一字にした方が大地とある以上正しいと考えている。雨)