なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(9)

    「それでも平気なのか」エレミヤ書3:1-5、2015年5月31日(日)礼拝説教

エレミヤ書から御言葉を聞いておりますが、今日の所にも、神とイスラエルが夫と妻の関係になぞらえて語ら

れています。この神とイスラエルを夫と妻の関係になぞらえて語っているのは、エレミヤより前に現れた預言者

ホセアでした(ホセア1章から3章)。エレミヤは、ホセアから受け継いで、神とイスラエルの関係を夫と妻の夫

婦の関係になぞらえて語っているのであります。エレミヤ書の2章には、イスラエル背信について語られてい

ましたが、すでにその2章の預言にも、その前提として神とイスラエルとの関係が夫と妻の関係として見られて

いました。たとえば、「お前は、素早い雌のらくだのように/道をさまよい/また、荒れ野に慣れた雌ろばのよ

うに/息遣いも荒く、欲情にあえいでいる。/誰がその欲情を制しえよう」(2:23,24)というように、イスラ

エルの民がある時はアッシリアと、ある時はエジプトと政治的取り引きをして、異教の神バアルを慕う姿が描か

れていたのであります。

・今日の3章1節には、明確に神とイスラエルの関係が夫と妻との関係になぞらえて語られています。

・「もし人がその妻を出し/彼女が彼のもとを去って/他の男のものとなれば/前の夫は彼女のもとに戻るだろ

うか。/その地は汚れてしまうではないか。/お前は多くの男と淫行にふけったのに/わたしに戻ろうと言うの

かと/主は言われる」。

・夫のもとを去って、他の男のところに行ってしまった妻、多くの男と淫行にふけった妻がイスラエルの民なの

です。そうでありながら、妻であるイスラエルの民は夫である神ヤハウエのもとに戻ろうと言うのかと、夫であ

る神ヤハウエは言われるというのであります。

・このような厳格な一夫一婦制を超えた夫婦の性的な関係に、現代の私たちは余り驚かないかも知れません。夫

婦関係を保ちながら、それぞれが他の人と性的な関係を結ぶのを、お互いに容認しているという夫婦もいるで

しょう。けれども古代イスラエルでは、そのような性的な関係は許されませんでした。古代イスラエルでは、夫

婦の性的な関係を非常に厳格に考えていました。たとえば、このエレミヤ書の3章1節と関係している律法が申命

記24章1節以下に記されています。そこを読んでみますと、このように記されています。

・「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離

縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌っ

て離縁状を書き、その手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼

女は汚れているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻とすることはできない。これは主の御前に

いとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない」(申24:1-4)。

・関根正雄さんは、「申命記24章の規定の背後には性関係に関する素朴な魔術的理解がある。然し申命記がこれ

を採用したのは倫理的な立場からで、結婚関係の神聖が問題の中心である」と言っています。この申命記の規定

の中に、性関係に関するどんな素朴な魔術的な理解があるのか、私には分かりませんが、結婚関係における性関

係の厳格さについて、この申命記の規定に書かれていることはよく分かります。そういう背景があって、ホセア

もエレミヤも、神とイスラエルの関係を婚姻に譬えているのはないかと思われます。

・「エレミヤがこのような婚姻法を引き合いに出したのは、イスラエルと神との関係はこの法律に照らして見て

もお話にならない驚くべき事態であることを指摘しようとする」(関根)ためです。申命記の法律の規定では、最

初の離婚の原因は書いていませんが、姦淫のためではありません。何故なら姦淫した者は離婚されるまでもなく、

石で打ち殺されたからです。けれどもエレミヤ書において、神から離れたイスラエルの場合は姦淫の故なのであ

り、申命記の法の規定より事態はずっと悪いのです。それだけでなく、イスラエルは他の一人の男の妻になった

のではなく、「お前は多くの男と淫行にふけったのに」(エレミヤ3:1)と言われていますように、多くの男と

姦淫を行ったのであります。そのような事情にありながら尚イスラエルは又前の夫である神ヤハウエに帰ること

が出来るかのように、安易に考えているというのです。そのようなことは全く不可能だと「主は言われる」(1:

1後半)と、エレミヤは言っているのです。「わたしに戻ろうと言うのか」(1:1)は、戻ることの不可能を言っ

ていると見るべきです。

・エレミヤは北イスラエルに向かって悔い改めの呼びかけをするのですが、イスラエルが、多くの男と淫行をし

た、すなわち、多くの国と政治的取り引きをしたことを、全く不問に付すことはできません。それだけではなく、

イスラエルの神への悔い改めは徹底を欠いているのです。

・5節に、「『主はいつまでも憤り/限りなく怒りつづけるだろうか』と/お前は言いながら悪を重ねる。/それ

でもお前は平気だ」と言われています。このエレミヤの言葉は、イスラエルの偽りの悔い改めを指摘したもので

す。そして、エレミヤは、神ヤハウエの下にイスラエルは自分の方からは帰ることはできないのに、なお帰れる

かのよう考えているイスラエルの甘さを審いているのです。

イスラエルの偽りの悔い改めについては、ホセア書6章1節以下にも記されています。少し長くなりますが読ん

でみます。

・「さあ、我々は主のもとに帰ろう。/主は我々を引き裂かれたが、いやし、/我々を打たれたが、傷を包んで

くださる。/二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。/我々は御前に生きる。/我

々は主を知ろう。/主を知ることを追い求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地

を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」(6:1-3)。

・このように語られた後、

・「エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。/ユダよ、お前をどうしたらよいのか。/お前たちの

愛は朝の霧/すぐ消えうせる露のようだ。/それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたし

の口の言葉をもって滅ぼす。/わたしの行う裁きは光のように現れる。/わたしが喜ぶのは、/愛であっていけ

にえではなく/神を知ることであって、/焼き尽くす献げ物ではない」(6:4-6)。

・このような甘さは私たちの中にもあるのではないでしょうか。私たち日本基督教団という教会の属する者は、

宗教団体法の下における日本基督教団の成立の問題、つまり国家の戦争遂行に取り込まれることによって日本基

督教団という教会が成立したということです。そして戦時下の戦争協力の問題は、神に背いて天皇制国家という

神にひざまずいてしまったという、日本基督教団という教会にとっては負の歴史です。1967年のイースターに当

時の日本基督教団総会議長鈴木正久さんの名前で出された「戦争責任告白」は、この戦時下の教団の戦争協力に

対する反省とアジアの人々と教会に対する謝罪、それに、「見張り」の役割を与えられている教会の預言者的役

割への自覚を言い表したものです。

・この「戦争責任告白」以後の40年の教団の歴史を、前教団総会議長の山北宣久さんは「荒野の40年」と言って、

伝道よりも社会活動に力を注いだと言って、すべて否定的に評価しました。この山北さんをはじめ彼に追随する

人たちは、教団の成立の問題も、戦時下の教団の戦争協力については一切触れずにいます。先日私の支援会で出

しました通信第13号の中に関田寛雄牧師は、教団の戦争責任について、このように述べています。

・「日本基督教団が戦後改めて宣教、牧会を始める時にですね、第二次世界大戦における、今振り返ってみても

おぞましい戦争協力があったわけですよね。それについて本当に主の前に悔い改めることなくして、戦後教団が

何をできたかということです。従って、勿論信仰告白は大事ですよ、大事です。けれども信仰告白の内容を実質

化するためには、まず教会の悔い改めが必要なのです。何としても教団の戦争責任をきちっと教団の歴史の中に

位置づける。まずこれをやってもらいたいと思うのですね」。

・神に背き、過ちを犯した者は、深刻な反省、悔い改めなしに神に立ち帰ることはできません。自らの過ちを深

く自覚する者は、自分の側からは神に立ち帰ることはできないと思うに違いありません。実は、エレミヤが語っ

ているのは、「自分の側から帰れないことを真に知ることこそ、正しく神に立ち帰る唯一の道である」(関根)と

いうことなのです。

・自分の側からは神に立ち帰ることが出来ないことを知っている者は、それにも拘わらず、神からの立ち帰れと

いう招きに聞き従わざるを得ないのです。生前イエスを裏切った弟子たちが、十字架と復活、聖霊降臨によって、

エスの弟子として再び立ち上がっていきました。この出来事は、正に自分からは神に、主イエスに立ち帰るこ

とができない弟子たちを、それにも拘わらず敢えて神が、そして主イエスが招いているのです。弟子たちはその

招きに従って、再びイエスの弟子として歩み始めて行くのです。弟子たちの逃走と否認と裏切りを、「一厘も残

りなく償った」のはイエスご自身でした。イエスは、弟子たちの逃走、否認、裏切りをまともに受け止めて十字

架に架けられて殺されていったのです。このイエスの十字架の出来事は、弟子たちにとっては彼らの逃走、否

認、裏切りという形でイエスと向き合っていた生前の自らのあり様の完全な死でありました。イエスから逃げ、

エスを否認し、イエスを裏切った弟子たちは、イエスの十字架によって彼等も共にその古い自分に死んだの

です。それは自分の側からは主イエスに立ち帰ることはできないという自覚であり、そのような自己が古い自己

としてイエスと共に十字架につけられて死んだという認識です。

パウロは競灰螢鵐5章17節以下でこのように語っています。

・「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいも

のが生じた。・・・つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和

解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。・・・わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。・

・・罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神

の義を得ることができたのです」(5:17-21)。

・私たちは、このことを大切にして歩んでいきたいと思います。