なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(109、復刻版)

         黙想と祈りの夕べ(通信 109[-4]2001・10・28)(復刻版)

 今日の黙想と祈りの夕べの聖書朗読個所の一つ、マルコ福音書2:1-12について感じていることを一、二触れてみたいと思います。一つは、このイエスの奇跡物語に出てくる中風の人は、この物語の中では何ら主体的な発言をしていません。イエスに向かって直接「助けて下さい」という訴えも上げていません。物語の中では、この病人を連れて来た四人の男の信仰を見て、イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたというのです(5節)。そしてイエスは中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)と言われます。すると、「その人は起き上がり、すぐ床を担いで、皆の見ている前を出て行った」(12節)とあります。この物語には、中風の人の信仰は問題になっていません。友人でしょうか、彼を担いでイエスのところに連れて来た四人の男の信仰がイエスに受け入れられています。それが一つです。

 もう一つの点は、この中風の人のイエスによる癒しの結果、彼は日常の生活に喜びをもって帰って行ったということです。最近受洗準備講座・キリスト教入門講座で横田勲さんの使徒信条講解を学んでいますが、横田さんはこう語っています。「癒す、ということは、あの四人の友人に担がれてきた中風の人に向かって、『起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた言葉が象徴しているように、一人一人の困窮の原因となっている様々な肉体的、精神的あるいは社会的差し障りを取り除き、彼らを日常生活に戻したということです」と。そして、「人にとっての最大の悩み、苦しみ、それは人間関係です。体や心の苦しみもそれが人間関係を損なうからこそ耐え難いものになるのです」。「主イエスはそのような人間関係の悩みを癒された、ということです。それができるのはコトバです。『あなたは、わたしにとって必要です。生きていてください。生きて、わたしといっしょにいてください』という言葉です。そして、人はこの言葉によってしか救われないのです」と。

 以上のような私の発言に続いて、ひとりの兄弟が、両親のいる弘前に帰郷しての感想を語ってくれました。

 弘前に帰り、父と日本海に釣りに行ったこと。父は釣りが好きで、何匹も魚を釣り上げた。自分も80匹くらい釣れた。楽しかった。そして、自分の母校東奥義塾高校に行ってきた。以前に弘前で起きたローン会社武富士の放火殺人事件で殺された従業員の一人が母校の卒業生で、自分の担任だった先生もそのことで取材を受けて、テレビに出たりしていて、その先生とも会ってきた。早く事件が解決して欲しいと先生も言っていたし、自分もそう願っている。

 また、一人の姉妹が、今日はバザーに近所の人が来てくれた。その方のところへ、用事があり、夕方出かけた。その方には二人のお子さんがあり、それぞれ家庭をもっている。私がいる間にその二家族が集まってきた。それぞれバザーで買ってきたものを用意してあって、取りに来るようにということだったようだ。私が帰った後、この家族はさぞ楽しい時間を持ったに違いない。一人のお嬢さんは数カ月前にお連れ合いを亡くしている。忙しい日であったが、豊かな時を過ごせて感謝していると。

 また別の姉妹が、病後の家庭復帰に緊張しているが、自分の母をはじめ多くの人に支えられて、感謝の思いで一杯である。今日は朝から自治会の運動会に参加し、その後娘とコスモワールドに一緒に行き、楽しんで来れたと語られた。

       「教会の栄光はまだ隠されている」(『ルターによる日々のみことば』より)

 イスラエルの神、救主よ、まことにあなたはご自分を隠しておられる神である。
                             (イザヤ45:15)

 預言者イザヤは、神についての真理を語っています。なぜなら神はその全能、知恵、権威、権力を隠しておられ、ご自分は何もできず、何も知らず、何も理解せず、あるいはしようとも欲しておられないかのように見せておられるからです。神は今わたしたちの敵が、その好むままに、みことばと聖餐の礼典とキリスト者を処理することをゆるしておられます。神はわたしたちを求め叫ばせるままにして、沈黙を守っておられます。あたかも神が詩を書いておられるか、あるいは何かに専心しておられるか、戦場におられないか、眠っていてわたしたちの祈りを聞いてくださらないのかのようです。しかし時期がくると、神がその偉大さ、その力、その全能をお示しになるのです。

 そのうちにキリストのみ名によって洗礼を受けたキリスト者たちは、静粛を保ち、踏みつけるものを追い払い、忍耐しなければなりません。信仰の生活においては、わずかに現われるのが神のみ旨だからです。しかし見る生活においては、神はわずかではなく、非常に偉大なかたとして現れます。そこで神はその民の苦しみをみそなわし、その叫びを聞かれること、神のみ旨は彼らを救うために彼らに向けられていること、神は彼らを助ける力を持ちたもうこと、等をお示しになります。今は神はそのよきみ心とみ力と能力を隠しておられますが、神が現われたもう時には、そのみ心とみ力と能力を現わしたまいます。神は今でも助け救うことがおできになります。神はそうする力を持っておられ、その意志を持っておられないのではなくて、これらすべては、みことばのうちに包まれているのです。それでわたしたちはそれを見ることはできませんが、信仰によってそれを把握しなければならないのです。しかし現われたもう日には、おおいは取り去られ、大いなる神として現われ、み名に対する義を行われます。そこで人々は「ごらんなさい、神は主であり、救い主である」と言うにちがいありません。 (1531年の説教から)