なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(58)

         船越通信癸毅検  。横娃隠嫁5月20日          

・5月13日の日曜日礼拝後お茶を飲んで懇談した後、船越教会の庭にある桜の木に実った沢山の真っ赤なサクランボの収穫を数名の方がしてくださいました。私も収穫されたサクランボを一箱いただきました。この日は午後3時からヴェルクよこすかで、「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」が主催して学習会(「原発事故と原子力空母」)があり、私も竹内忠美さんと参加しました。この集会のチラシ呼びかけには以下のように書かれていました。

・「福島第一原発の事故から1年。今も原子炉の格納容器底部に溶け落ちた核燃料がどのような状態になっているのかはわからず、核燃料を冷却し続ける困難な作業が続いています。福島県では16万人が避難生活を続け、汚染されたふるさとへ帰ることができない悲しみと向き合っています。/横須賀を母港としている原子力空母には、2基の原子炉が積み込まれています。大地震、大津波に見舞われた時、原子力空母は本当に安全なのか。/元日本原子力安全基盤機構の職員で、原発の検査員だった藤原節男さんと、原子力資料室情報室共同代表の山口幸夫さんを講師にお招きし、『原発事故と原子力空母』の学習会を開催します。藤原さんは、原子力空母が積んでいる加圧水型の原子炉について詳しい方です。ぜひ参加下さい」。

・実際藤原節男さんのお話は、原子炉についてのさまざまな問いに答える形で行われましたが、大変詳しい方でした。技術者としてかつては原発を作っていた側の人で、原子力の平和利用としての原子力発電を全面的に否定する人ではないようです。しかし、少なくとも技術的な問題がある限り、原発を稼働させることは絶対にあってはならないという立場を鮮明にしている方です。日本原子力安全基盤機構の職員時代に、原発の検査員としてある原発の試験稼働に問題があったという報告書を上司から削除を命じられて、それに抵抗して結局辞めざるを得なかった経験から、野に下って原発の問題性を訴えていたところに、昨年の3・11東電福島第一原発事故が起こり、その働きが注目されるようになったようです。内部告発者でもありますので、実際の原子炉や原子力行政の問題を鋭く問うことができるのでしょう。学者としての小出裕章さんとも違い、原発の現場に詳しい人なので、その講演は一つ一つ説得力がありました。

・日本の社会は、原発のことにしても原子力村というような行政・企業・学者が一体となって閉鎖的なグループを作って、ある種の秘密主義によって事が進められることがまだまだ多いと思います。情報公開の上に立って、誰にでも開かれた形で事が進められるようにしていきたいと思いのですが、日本基督教団にあっても同じ体質を持っているように思われます。これは、個人の尊厳を基盤にし、平和と人権を何よりも大切にする社会の形成が、まだまだ不十分ということなのでしょう。私は自分の免職処分のこともあり、藤原さんのお話しを聞きながら、自分の問題に引きつけて、異議申し立てはきちっとしていかなければならないと強く思わされました。

・さて、この集会の帰りに横須賀中央駅前でめずらしい人に出会いました。私はお名前を知らないのですが、何回か国会前での辺野古新基地建設反対の座り込みでお会いしている車椅子の女性の方です。その方が横須賀中央駅前で一人で基地反対、ジョージワシントンは出ていけと叫んでアッピールをしていたのです。周りの人はほとんど彼女を無視しているようでしたが、そのことにめげず彼女は叫び続けていました。

・16日には、鶴巻で小田急沿線の親しい方4人と会食をすることにしていましたが、他に2人加わり、私たちと8人で夜遅くまで楽しい会を持つことができました。その日電話があって飛び入りで加わったのは、画家のS君ですが、彼とは彼が高校生の時からずっと交流が続いています。私の家には彼の画いた絵やデッサンが何点か飾ってあります。その日彼は泊って行き、近々行われる彼の個展に出品したと言って、私の家にあった絵を一枚持って行きました。この彼も、高校の絵画の非常勤講師や絵描き教室の講師をしながら、ずっと絵を描き続けている人物です。自分を投げ出してしまわないで、迷いながら悩みながら自分を手放さないで生きている彼に私は共感しています。

・17日には船越教会の聖書研究会がありました。今回から上村静さんの『旧約聖書新約聖書~「聖書」とは何か』を扱います。今回はこの本の「はじめに」を一緒に読みました。【古代ユダヤ人も初期キリスト教徒も、現在の聖書に収められているものよりはるかに多くの書物を生み出している。なぜ多くの書物群の中から、一部の書物だけが「聖書」とされたのか。そこには、きわめて政治的な力が働いている。ある特定の書物を「聖なる書物」と定めたのは、あるグループに属する人間である。そこには、ある特定の書物に「神」の権威を与えることで、自分たちを正当化しようという動機が働いているのである。一度ある書物(群)が「聖書」とされると、それは絶対化される。「聖書」は「神の言葉」であるから絶対だ、と。そして「聖書」の教えに反するとされた者は断罪され、抹殺されるということが起こる。それは「聖書」の権威を傘に、自らを絶対化・正当化する暴力である】。【とはいえ、特定の書物(群)を「聖書」としている人間の思惑と、聖書に入れられている各書物を著るした人間の意図は同じではない】。【聖書は、それが「聖なる書物」とされる限り、それを「聖書」とする人間の暴力を生み出し続けてしまう。だが、その「聖性」を外してみるならば、人間についての洞察を語る人間の言葉として読まれるならば、そこからわれわれは〈いのち〉の神秘に、すなわち「神」に、出合うことができる】と上村さんは言います。この本はある意味で聖書の解説書ですので、自分で読んだだけでは良くわからないという感想もありましたので、私が解説をしながらゆっくり読んでいきたいと思います。

・18日には私が委員長をしている寿地区活動委員会がありました。