なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(114、復刻版)

      黙想と祈りの夕べ(通信 114[-9]2001・12・2発行)

 11月24日の土曜日の午後、牧師室で説教の準備をしていましたら、外が騒がしくなり、右翼の街宣車紅葉坂から教会の方へ入るところに止まり、その前に警察官が数名簡単なバリケードにより車がこちらに入るのを阻止していました。右翼の街宣車からはスピーカーで、警察は日本共産党守るのか、どけー、と大きな声で叫んでいました。教会の上の方にある市従会館で共産党の集会が行われていたのでしょう。かつて戦時下では、右翼と官憲が一体となって共産党員を弾圧したことを思い起こしました。まかり間違えば、私たちの日本の社会がかつてと同じ轍を踏まないとも限らないのではと想像しながら、右翼と警察官のやりとりを垣間見ていました。

 その前日寿の青年ゼミに参加し、多くの青年の手があるので、昼の炊き出し配食を近くから見ていたときに、配食少し前に。青年たちと話していた杖をついていたどちらかの足が少し不自由なおじさんに、通りがかりの別のおじさんが話しかけ、しばらくしてその杖のおじさんに向って、「びっこ」と揶揄し、炊き出しの人たちに向って、「共産党朝鮮人」と言って、立ち去っていきました。その人がどんな思想、観念を持つのは自由ですが、他者をその自分の思想、観念で切り捨てるあり方は偏見と差別以外の何物でもありません。しかも、その立ち去ったおじさんにしても、街宣車でどなっている右翼の青年にしても、その思想や観念は注入されたものではないかと思われます。恐ろしいと思いました。

 以上のような私の発言に続いて、一人の姉妹から、その日の「学びと語らいの集い」(教会の担い手と役員について)に参加しての感想が述べられました。

 子どもの頃からこの教会に来ているが、その頃の教会の役員の方々は、威厳があって、人を寄せ付けないイメージが強かった。おそらくその当時の教会で、今回のようなテーマが取り上げられることはなかったと思う。当時の役員は選ばれたら、何をおいても役員の務めを果たす気概にあふれていたから。また教会がすべてだというところが、当時はあったように思う。自分も若い時には、教会に入り浸りだったし、教会に没頭することができた。しかし、今はそうではない。教会の他にもいろいろな働きを担っていて、教会に没頭することはないし、またその必要も無いと思う。そういう点で、そのときどきの社会状況によって、信徒の教会との関わりも違ってくるのは当然だと思う。

 今回の話し合いは、時代の流れの中で、教会が新しい形を見出すきっかけになるように感じて、不思議なものだと思った。教会の働きは、お掃除や昼食会など多いが、役員の働きの中でも、たとえば受付、礼拝司会、葬儀担当、聖餐式準備など他の教会員も分担し合うことができるのではないかという意見が多かった。参加者は少な目だったが、教会の担い手として考えれば、これだけの人たちがいることを思い、今後の流れが楽しみだ。開かれた教会になっていけばよいと思う。ただし、今後もし、時代状況が教会の存在を認めず、弾圧のようなことが起こるようになったときも、役員だけでなく、みんなでその荷を負っていけるように、一人の教会員としての責任をきちっともっていきたいと思った。

 もう一人の姉妹も、「学びと語らいの集い」に参加でき、いろいろな人の意見を聞けてよかった。また友人から聖書の読み方を聞かれて、以前はお魚を好きなところから食べるように、どこからでも読んだらと言ったが、もう少し手引きのようなものがあればと思っていると(後でこのことをめぐって話し合った)。

        「人の子の日」(『ルターによる日々のみことば』から)

 「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」
                                 (ルカ21:27)

 ここで、力とは、キリストとともにさばきにやってくる天使と、聖徒と、すべての被造物の大軍であると考えることもできます。また、キリストの第一の来臨が弱さと貧しさのうちに目立たなかったのに対して、第二の来臨は、力において印象的であるということを表現しているのかもしれません。さらに、「主がおいでになる」と言われておらず、「人々は主がおいでになるのを見る」と言われていることです。肉による誕生のうちにおいでになったとき、だれも主を認めませんでした。また、主は信じるすべての人の心のうちに、福音を通して、毎日、霊的な方法でおいでになっておりますが、だれも主を認めません。しかしこの来臨は公になされ、だれもそれを見ないわけにはゆきません。「すべての人の目は、彼を仰ぎ見るであろう」(黙示1:7)と言われているとおりです。しかも、このかたは、マリヤから生まれ、地上を歩まれたとおりの肉体をもった人の子キリスト・イエスにほかならないということを認めるのです。

 もしそうでなければ、キリストは、「彼らはわたしを見るであろう」とおっしゃって、わざわざ肉体的な姿を明らかに示す表現を使われなかったにちがいありません。しかし、「人々は人の子を見る」とおっしゃったからには、肉体的な再臨を意味しておられることが明らかです。肉の目が肉体をとった姿を見るのであって、しかもその姿は大いなる力に満ち、天使の軍勢とあらゆる天の栄光に囲まれております。キリストは輝く霊に乗り、すべての聖徒たちがいっしょにやってきます。聖書はこの日について多く語っており、あらゆるものはここに向けられております。
                                (1522年の説教から)