なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(119)

8月に入りました。厳しい暑さが続いています。くれぐれもお体大切にお過ごしください。今日は「父北村雨垂とその作品(119)」を掲載します。              


              父北村雨垂とその作品(119)


  原稿日記「一葉」から(その1)


 ノエシスノエマフッサールの発想であって超越論的な純粋意識として、現象学者である後の哲学を展開したと言われている。プラトンは理性的な認識としていたらしい。
西田幾多郎ノエマを静的に客観面、ノエシスを動的な主観面と考えてゐる。ヤスパースは主観、客観を意識の分裂として、それの作用と考へられる包超者を想定して、彼の実存哲学を提唱している。而し、存在は依然として何等かの意味で「謎(ナゾ)」が残る様である。存在とは、未だ單なる暗号であるに過ぎない様に考へられる。
                         1976年(昭和51年)1月1日雨垂考


 無と力は同質であると考えることも出来る見、聞、觸、香、味のいづれの抵抗もない。観る、聴く、のさうした意識への誘(さそ)いも、困難である。無が意識されるのは何時も有の対象として二次的に意識される。
 力も亦「・・・の状態」と云う二次的に意識される。この意味に於て、無も力も「存在する」ことを承認することが出来る。



 ハイデガーが理解するところのニーチェによれば、芸術としての「力への意志」によって人類が最初に創作したものが「神」であり「佛」であらう。そして神が最も先であり、その修正されたものが「佛」となるとも考へられる。いずれにしても神と佛は人類の「最初にして而も最髙の芸術→力の発動であると認めざるを得ないであらうか。

                     ○ ○
 
 無とは如何なる認識をも拒絶するところの状態の表現であり、さうした場所の「考へられた状態」のコトバである。もちろん哲学者の「絶対無」の如きは最もよく考へての状態の無である。
 時間とは或るものの状態によって考へられた表現であって、そのものの状態の次元に於て認識された「無」の用である。


 西田幾多郎純粋経験について、具体的意識の厳密なる統一にあると言ひ、カール・ヤスパースは「哲学とは何か」の中で意識とは客観主観への分裂と云ってゐる。西脇順三郎曰うところの詩作品に於ける、ポヱジーとは主観と客観が分裂する意識の火花ではないであらうか。

 
 安易な謙譲に就て

 謙譲を無批判的に美徳とすることは過ちを犯したことになる。理由は簡單である。
 それは対者に、自己批判の時間を与えなかったからで、あくまで対者をして愚(ぐ)人のままで社会生活を営ませる結果になり兼ねないからである。重ねて云えば安易な謙譲とは、安易な生活を自らに強いるところの利己主義に通ずる。


 超絶対的時間

 時間、それ自体「絶対時間」は永遠に現在である。過去と未来は、この絶対時間の外側と内側にあるものと私は考えてゐる。誰、私が指示する絶対時間がニュートン等の指示する絶対時間と同一視されるおそれがあるので、超絶対時間或いは超絶対的時間と指示することにする。故に超絶対時間は「絶対時間」をその腹中に収めている。過去と未来はこの超絶対時間の現在の腹中にある。そして力学も量子力学も相対性原理も現代の哲学者も科学者も、出口のない坑道を堀り續けている。
 釋尊や竜樹はどうやら要領の良い人であったらしい様に思われる。