なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(155)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(155)」復刻版を掲載します。


          黙想と祈りの夕べ通信155([-50]2002.9.15発行)復刻版

 今日の新約聖書の朗読聖書箇所は、マタイによる福音書6章25~34節でした。この中にある「野の花を見

よ」という箇所についての思い出を話します。私の神学生時代のことです。当時アメリカ、フランス、ド

ンツに行き、学んで帰って来た伊藤之雄さんという方が、東京の寄せ場である山谷で伝道を始めておられ

ました。玉姫館というドヤの3畳くらいの部屋を借りて生活し、日雇いの仕事もしておられたようです。

山谷にある会館の一室で礼拝のような、聖書の学びのような集会をもっていました。その集会に私も友人

と1,2度出席しました。その時の集会の話がマタイ6:25以下に基づくものでした。伊藤さんは、雑

草の葉っぱの葉脈やその生命現象を細かに説明し、その不思議を強調されてから、葉っぱ以上に人間のか

らだの複雑な構造を説き、命の不思議と驚きを強調され、そのようなからだをもって生かされてある私た

ちの存在が惠そのものであることを語られました。もそもそと朴訥な語り方で話される伊藤さんのその時

の話を、マタイ6:25以下を読むたびに思い出します。当時山谷は闘争の場で、公安に捕まった労働者

を、伊藤さんは支援し、留置所に会いに行ったりしていたようでした。その後脳腫瘍を患い、山谷での活

動ができなくなって、某キリスト教主義の大学で教えていましたが、しばらくしてお亡くなりになりまし

た。私にとっては色々な影響を受けた先達の一人でした。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。友人から何十年後に、自分には何が残る

か、不安を感じる。あなたは意味ある仕事をしていていいな、と言われた。その友人は高校時代の仲間に

会って、みんなが活き活きと成長して見えたと言う。私から見れば、彼女なりによく生きていると思う。

そのことを彼女に伝えた。人はよく見えても、自分は自分なりに生きていくことではないか。生きている

ことは苦しい、つらいこともある。9・11で多くの人たちが犠牲になり、今も苦しみ闘いながら生活し

ている。私自身も日々の生活の中で苦しみや悲しみを感じることもある。喜びや幸せもある。自分だけで

はなく、お互いに喜びを分かち合えたらと思う。この世の一番美しいことは、神さまが私たちを愛してく

ださるように、互いに愛し合うことだ。貧困は神ではなく人間がつくっているように、人間の苦しみや悲

しみの多くもそうだと思う。お互いに分かち合えれば、そのような時が来ればと考えさせられた一週間だ

った。

 また別の方からの発言がありました。今日の婦人会で、平和をテーマに話し合った。当番の方が、まず

歌人の紹介をし、語り継ぐことの大切さを語られた。その後参加者から、ご自分が10代、20代に戦争

体験をしたその経験が次々に語られた。8月15日の敗戦の日の空が異常に青く澄んでいたこと。娘時代

買い出しに行った途中で品物を全部没収され、憲兵に口汚くどなられ、200回もあやまらせられたこ

と。あの頃は何も言えなかった。今思うと、戦争は人を変えてしまう。戦争反対と今は言いたい。私自身

は今年の夏に沖縄に教区の女性たちと行き、帰ってから、横浜港ノースドックに米軍の軍用艦が停泊し、

物資を積み込んでいるのを目撃した。沖縄に行く前は、基地の問題は遠くの出来事に思えていた。以前横

須賀の基地を見学した。その時は基地の問題に気づかされたが、時間が経つうちに忘れていた。地区の婦

人会の集会で沖縄の人たちと出会い、夏に沖縄に行くことになったが、ノーを言える者でありたい。女は

命を育む者として、命を奪うものに抗えるように思う。かつての失敗を繰り返さないようにしたい。今自

分がどのようなところに置かれているのかを、身近な者だけではなく、遠くの場所にいる人々も見つめ

て、何が出来るか考えたい。

 他に二人の方から、テレビドラマ「北の国から」の感想と、近所の方との出会いにつちえの発言があり

ました。



      「内なる人が強くなるように」(『ルターの日々のみことば』より)


 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さ

 るように。                               エペソ3:16


 この世の人々は勇気と高邁な精神にあふれています。キリスト者もそうです。キリスト者聖霊によっ

て更に強力です。なぜならキリスト者は、この世も、悪魔も、死も、不幸も恐れないからです。これは霊

的な力と呼ばれています。「霊」という小さなことばは、大胆とか勇敢とかいう勇気を意味しているから

です。なぜなら霊的な力は、肉や骨ではなくて、心や勇気自身だからであり、一方弱さとは、小心、臆

病、勇気の欠如を意味します。

 そこでパウロは言います、「わたしがあなたがたのために神に願い求めることは、神があなたがたに、

このような強い大胆な心と、力と喜びにあふれた霊を与えられて、恥も、貧しさも、罪も、悪魔も、死も

恐れず、あなたがたをそこなうものは何もないことを確信するようになり、あなたがたに欠けたものがな

いようになることである」。この世の勇気は、報いとなるような、なにかこの世的な利益がなければ、耐

え忍ぶことがありません。しかし真の勇気は、ただ神のみに信頼し、神以外の幸福や黄金を持ちません。

そして神によってすべての悪に逆らい、その世から出たさまざまの勇者や勇気に打ち勝ちます。
               
                                  1525年の説教から