なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(8)

        使徒言行録による説教(8)使徒言行録2:22-28、
             
・最近私のパソコンのメールに、大阪で、原発再稼働・放射能拡散反対市民運動に参加して逮捕拘留されています、大学の教員のようですが、下地真樹さんという方が留置場から出した声明が知人を通して転送されて来ました。その声明を読んで、こういう人もいるのだと、感銘を受けました。その一部を紹介させていただきたいと思います。全文を、15日の私のブログに掲載させてもらいましたので、ご覧になっている方もいるかも知れません。

・まず下地さんは、自分は悪いことは何もしていませんと、不当逮捕を批判し、現在の危機的な状況を訴えています。「いま、私たちが暮らす日本は、そして世界は、危機的な状況にあります。福島の原発事故はいまだ収束せず、4号機の使用済み核燃料プールが倒壊すれば、日本だけでなく、世界が終わると言っても過言ではない大惨禍をもたらすことになるでしょう。放射能汚染への対応もまったくできておらず、食品その他の流通を通じて、汚染は拡大しつつあります。そんな中、『電気が足りない』とうそぶき、原発を使い続けようとしているのです。すべてが狂っているとしか言いようがありません」と。

・続けて、「この半年か1年の間に、政府がどのような施策を行うか、それによって私たちの未来は大きく変わるでしょう。日々、学生たちの顔を見ながら思います。二十歳そこそこの彼らが私と同じ四十歳になる頃、どんな世界に暮らすことになるのかと。そのたびに、今回の原発事故を防げなかったこと、先輩世代として申し訳なく思います。彼らには罪はないのですから。せめて、少しでもマシな世界を残せるよう、微力を尽くしたいと思っています。事故はすでに起きてしまいましたから、時間はあまり残されていません。しかし、希望はあります」と言っています。

・そして、自分と同じ医者や科学者のような専門家に向けて語りかけています。「真実は、批判と応答を通じて初めて、姿を現します。政府をはじめとする権威が語ることではなく、その反対側に立ち、権威に対して反問することを通じて真実が明らかになるように行動して下さい。まちがってもいいのです。常に弱い側に立ち、その軽んじられる言葉や存在を擁護し、自らが仮にまちがうとしても、逆説的に、権威との言説の応酬の中で真実が明らかになるように、語って下さい。あなたの専門分野が何であるかは、関係がありません。勇気をもって下さい」。

・最後に、下地さんがもっとも深く関わってきたとされる「震災がれきの問題」に触れ、「震災がれきの広域処理は誰のためにもならない」ばかりかりでなく、その「代償は、私たちの、子どもたちの、そして、これから生まれてくる子どもたちの命です。こんなデタラメな施策が許されていいはずがありません。絶対に止めなければなりません。これまでともに学び、取り組んできたみなさん、諦めずに戦ってください。また、これまで震災がれき問題について知らなかったみなさん、是非、今からでも知って力を貸して下さい。これは、私たちの未来そのものを守るための戦いです」と訴えています。

・そして「私はいつ出られるかわかりません。でも、いつかきっと出られます。姿は見えなくても、心はともにあります。この間、不当に逮捕されている他の仲間たちもきっと同じ気持ちです。みなさんに会える日をたのしみにしています」と、この声明を結んでいます。     

・この下地さんという方の声明を読ませていただいて、直感的に私の中では、拘留中の下地さんと十字架のイエスが重なりました。下地さんは、人が生かされるのは真実が明らかとなった時だという風に考えているように思われます。そして政府をはじめ権力によって命が犠牲にされている、嘘で固められた危機的な現状を何としても変えなければならないと考え、自分のできることを精一杯してきた結果、逮捕拘留されたのだと思います。

・イエスも、当時のローマ帝国支配下にあるユダヤの国で、大祭司をはじめユダヤ自治機関であるサンヒドリンも、精神的に民衆に影響をもっていたユダヤ教の指導者たちも、その社会の中で最も弱い立場の人々の命が犠牲にされている危機的な現状を、嘘で拭って、変えようとはせず、自分たちの権益だけを守っているように見えたのではないでしょうか。そのために、神にある真実が明らかになるようにと行動されたのではないでしょうか。そして、自分のできる精一杯のことをされた結果、十字架という磔による死を受けざるを得なかったのではないでしょうか。

・今日の聖書の個所は、そのイエスの生前の行動と十字架死によって、「ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方」なのだと訴えているのです。イエスが生前人々の中で行われた「奇跡と、不思議な業と、しるしとによって」イエスが神から遣わされた方であることを、神ご自身が証明されたのだと、このペトロの説教では言われています。また、そのことは、このペトロの説教の聞き手であるユダヤ人である「あなたがた自身が既にしっているとおりです」とも言われています。

・また、イエスの十字架に触れて、このように言っています。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」と。ここには明らかにイエスを十字架につけたのはユダヤ人であるあなたがただということが明言されています。イエスを十字架につけたのは、直接的には、ローマの総督ピラトであり、ピラトと結託していた大祭司らユダヤ人の指導者、つまり権力を持っていた人々なのですが、使徒言行録の著者ルカは、ペトロの説教の聴衆であるユダヤ人一般がイエスを十字架につけたと言っているのです。確かにユダヤの民衆は、間接的にはイエスを十字架につけたといえるでしょう。しかし、ペトロの説教において使徒言行録の者者ルカのように、イエスを直接的に十字架につけた権力者たちには触れない形で、ペトロの説教の聴衆であるユダヤ人一般に対して、あなたがたがイエスを十字架につけたと言い切るのは、いかがなものでしょうか。ルカには親ローマ的な傾向がありますし、個人による罪の悔い改めということが強くありますので、そのようなルカの神学的な傾向が、このペトロの説教の記事にも反映されているように思われます。2章38節を見ますと、「すると、ペトロは彼らに言った。『悔改めなさい。・・・・』」と言われています。今日のところの「あなたがたがイエスを十字架につけたのだ」ということは、そこに繋がって行くのです。

・ペトロの説教では、イエスの復活についてこのように記されています。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(24節)。ここには、イエスの復活は、死の苦しみからの解放という風に言われています。そして詩編の16編8節から11節が引用されています。「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。/主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。/だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。/体も希望のうちに生きるであろう。/あなたは、わたしの魂を陰府に捨ておかす、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」。

・この詩編は、「元来、死の不安におののきつつも、神が彼を時が来る以前に死なせることはないという確信を歌っている」のですが、ルカは、この詩編の記者が、ここでイエスの復活を予言していることを読み取ろうとしているのです。この詩編では、「命に至る道」(使徒言行録2章28節)は、「敬虔な者に神によって保証された生涯を意味するのであるが、ルカは、死から復活の命に導く道と理解している」のです。

・この復活理解も、十字架同様、イエスの十字架と復活がもっている歴史的・社会的な意味にはほとんど触れてはいません。むしろ、死の苦しみからの解放という個人の内面の問題に還元しているように思えてなりません。

・このペトロの説教におけるイエスの十字架と復活に関するルカの理解には、ある意味でルカの時代の一世紀の終わり頃のローマ帝国に広がって行く教会において、ローマ帝国とは妥協的に教会を擁護していくために、信仰の内面化が起こっていて、その影響が表れているのかも知れません。

・そういう意味では、私は、イエスの十字架と復活を、ルカのように個人の内面の問題に還元してみることはできません。そういう見方をみとめないわけではありませんが、同時にイエスの十字架と復活の歴史的・社会的な側面を見なければならいと思います。

・最初に紹介ました下地真樹さんの声明に語られているような側面は、イエスの十字架と復活にもあるのではないでしょうか。「イエスの十字架は、当時のローマ帝国支配下にあるユダヤの国で、大祭司をはじめユダヤ自治機関であるサンヒドリンも、精神的に民衆に影響をもっていたユダヤ教の指導者たちも、その社会の中で最も弱い立場の人々の命が犠牲にされている危機的な現状を、嘘で拭って、変えようとはせず、自分たちの権益だけを守っているように見えたために、神にある真実が明らかになるようにとイエスが精一杯のことをされた、そのイエスの行動の結果ではなかったのでしょうか。」と申し上げましたが、イエスの復活はそのようなイエスの十字架に極まるイエスの生きざまの神による肯定であり、そこにこそ神による「命に至る道」があるというメッセージなのではないでしょうか。