なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(206)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(206)」復刻版を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(206[-48]2003.9.7発行)復刻版

 8月31日(日)も黙想と祈りの夕べは休みにしましたので、最近読んだ一冊の本のことを書いてみたい

と思います。その本は清水博『場の哲学』(2003,東京大学出版会)です。前もって清水博という人がど

ういう人なのかも知らずに、全く本の標題に惹かれて、書店で衝動買いした本ですが、今まで私なりに考

えて来たことにヒントを与えてくれる内容で、読み終わって得をしたような気分でした。私が惹かれたの

は「場」という言葉です。前々から「自立と共生の場としての教会」というような言い方を私はしてきま

した。教会については、「キリストのからだ」とか「信仰共同体」とか言われますが、私はそういう神学

的な表現は避けて「場としての教会」というように言い表わしてきたのです。その教会という場を共有し

ている私たちが、その場を通して私たちがどういう出来事に与っているのかを考えたいと思ったからで

す。そして教会という場を通して私たちが与っている出来事によって何が私たちの中に生起しているのか

を考えていきたいと思ったからです。そういう私の中にあった「場」という言葉へのこだわりが、『場の

哲学』に惹かれた理由です。この本の帯にはこんな言葉があります。「互いの違いを認める。共に生き

る。そんな社会を、どうすれば創ることが出来るか?」。著者は近代文明が現在の世界に閉塞をもたらし

ているという認識に立って、その近代文明のパラダイムである主客分離の上に成り立つ科学技術を超える

構想力を持った主客非分離の「場の共創」というパラダイムを提示しようとしています。

 まえがきに、「近代文明は科学技術の目覚ましい発展を通じて人間の生活を大きく変えてきた。科学技

術の貢献の大きさについては、誰も否定できない。しかし光を浴びてそびえ立つ科学技術という建造物が

巨大になればなるほど、その陰もまた大きくなる。そして遂に20世紀の終わりになって、その大きな陰が

地球の生命圏に深刻な打撃を与え、さらに人間としての我々の生存を内外から脅かす存在にまでなってし

まった。ここから生まれる暗い閉塞感が世界の至る所に影響を与えている。近代文明はまさに行き詰ま

り、我々は旧い文明が新しい文明へ交替する大きな転換期に今生きているのである。現在、新しい文明を

リードする確とした哲学はまだ現れず、我々は底なしの虚無感に捕らえられて、足場のない空間を漂って

いる。そして口に出さないが、自分たちを救済する何者かが出現することを、心のどこかで待ち望んでい

る」と記されています。

 著者は「新しい文明の鍵が多様な個の共存在である」ことを踏まえて、「具体的には、多くの個の働き

によっておきる秩序の自己組織現象(多くの個の自主的な働きによって個の集まり全体に秩序が生まれる

現象)に注目」し、「どのようにすれば個の多様性を前提にした秩序の持続的生成を考えることが出来

る」かを追究していき、「場の共創」の哲学を構想しています。詳しく知りたい方は本を読んでいただく

以外にありませんが、著者が挙げています舞台での即興劇の例は刺激的に思われます。私たち一人一人は

舞台という場で即興劇を演ずる役者にたとえられます。劇場には舞台のほかに観客席があり、その即興劇

を演ずる役者の一人一人は観客の期待に応えようと演じます。しかも舞台は出席者全員で創り出すわけで

す。役者にとって観客は大いなる命です。大いなる命に促されて役者は他の役者と共に舞台を創造しま

す。そのことが「共創」ということです。それは近代文明の自他分離の上に立った競争原理とは対照的な

在り方です。



        「神のご計画」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよい」
        
                                    ルカ1:49

 神が大きな事をされる力と知識を持っておられることを信じるだけでは、神のこのような大きな事にた

いして恐怖を抱くでしょう。しかし神がこのような行為をなさる愛とご計画を持っておられることを信じ

ることができるならば、その人は慰められます。しかしその場合にも、あなたではなく、他の人々のため

に大きな事をしようと計画されているのを信じるだけでは不十分です。その場合、あなた自身はこのよう

な神の行為から除外されており、自分の力を誇って神をおそれず、反対に、悩みにあうと絶望してしまう

人々と同じなのです。このような信仰は無益で死んだものであり、おとぎ話からとった妄想と同じです。

あなたは疑うことなく、ためらうことなく、あなた自身に対する神のみこころを知り、神があなたがたに

対して大きな事をしようと計画し、実行してくださることをかたく信じなければなりません。このような

信仰は生きて働きます。それは全人格を貫いて変えてしまいます。この信仰はあなたが富み栄えているな

らば、おそれをもって生活するように導き、悩みのうちにあるならば慰めを受けるように導きます。あな

たがますます富み栄えるならば、いよいよおそれのうちに生活するようになり、ますます深く投げ捨てら

れるならば、いよいよ慰められるのです。このような信仰は、キリストが、この信仰はそれだけ堅く立つ

と言われたように、あらゆることをなすことができます。この信仰はまた、神の活動と、神の愛を体験す

るように導き、神の讃美を歌うようにと心を動かし、信仰者は神の高さについて思いめぐらし、神を全能

なるかたとして尊敬するようになります。

                       「マリアの讃歌」のドイツ語訳および解説