今日も「黙想と祈りの夕べ通信(207)」復刻版を掲載します。
黙想と祈りの夕べ通信(207[-50]2003.9.14発行)復刻版
前回紹介しました清水博さんの『場の哲学』の中で、人間理解について面白い例えが引かれて
います。それは卵を一人一人の人間に例えて語られています。科学主義と合理性に基づく近代社会
では、一人一人は殻のある卵と同じで、自他分離の状態にあって、互いに競争していると言うので
す。従って、そのような人間にとって、他者は非対象的な存在、つまり自分が利用すべき物のよう
な存在にならざるを得ません。けれども、清水さんはご自分の専門である薬学の研究を通して、生
命現象に触れて、そこからヒントを得、また西田幾多郎などの場の論理、一即多、多即一、を取り
入れながら、人間を、割った卵が複数一つの皿のような場に共存している存在として捉えていま
す。黄身はそれぞれ独立していますが、入り混じった白身の動きによって黄身の場所が移動してい
きます。このような人間観によれば、自他非分離の状態に私たちは共存しつつ、それぞれの固有
性、独自性を持った存在として受けとめられます。たとえば、パウロの手紙の中にも出て来ますよ
うに、体と肢体のたとえ(ローマ12章、汽灰螢鵐12章)も、この割った複数の卵のたとえに類似
していると思います。パウロの体と肢体のたとえでは、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、
かえって必要なのです」(汽灰12:22)と言われています。清水さんも、弱い人や苦しんでいる
人の存在が、場の哲学では包括されているということを、繰り返し語っています。しかも、個々人
は「絶対的な生命」(私はイエスによる神の命を連想しました)との関係を通して、他者と共に共
有する場において、競争ではなく共創する存在として描かれています。殻を割った卵として複数の
同じ殻を割った卵と共に、一つの場を共有する存在として、私たちが競争ではなく共創を、具体的
な実践を通して生きたいと願います。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。夏期集会が終り、日曜学校の秋か
らクリスマスに向けて、これからの歩みについてスタッフ会で話し合ったが、夏期キャンプでのス
タンツには、子どもたちの発想の豊かさが感じられた。クリスマスのペイジェントも子どもたちの
豊かな発想を生かせないか。秋にもいろいろなプログラムがあり、すぐに時間が過ぎて行くので、
パイジェントのことも早めに考えたいと話し合った。教会の営みが徐々に語る人・聞く人という一
方的な関係ではなく、みんなが一人一人発言し、考え合う方向になりつつある気がする。信徒の友
の記事にあったハンセン氏病のことでは、教会(キリスト教)は過ちを犯してきたが、そこにも他
者の声に耳を傾けなかったという問題があるように思う。忍耐強く、お互いに聞き合う関係をつく
っていきたいと思う。
もう一人の方からは、今日の午後二人の年長者の方と話す機会を持ち、元気をもらうと共に、年
長者の抱えている問題の重さを感じさせられ、自分にできることがまだいろいろあると思った、と
いう発言がありました。
「神はより頼む者を捨てない」(『ルターの日々のみことば』より)
患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているから
である。 ローマ5:3-4
神は人間を強めようとされるとき、まず彼の信仰を破壊するようなふりをして弱められます。彼
を多くの悩みの中に投げ込み、全く疲れさせて、絶望の淵へ追い込みます。しかもなお神は静かに
耐える力を与えられます。このような静けさは忍耐であり、忍耐は練達を生み出します。それで神
が再び彼のところに帰ってこられ、太陽が再び現われて照り輝き、あらしが過ぎる時、彼は驚きの
目を開いてこう言います。「主はほむべきかな。わたしは悪より救い出された。神はここに臨在さ
れている。すべてがこんなにもすばらしい結末になろうとは夢にも思わなかった」。
一日か二日の後、または、一週間か一年のうちに、あるいは次の時間においてすら、罪はわたし
たちをもうひとつの十字架のもとへ連れてゆきます。名誉、財産の損失、負傷、その他、なにかの
悩みをもたらす不幸です。そしてすべてはまた新たにはじまり、嵐が今一度吹きすさみます。しか
し今や、わたしたちは悩みの中にも主をほめたたえます。なぜなら、以前、神はわたしたちに恵み
深かったことをおぼえており、わたしたちをこらしめるのは神の恵み深いみこころによることを知
っているからです。それゆえ、わたしたちは主のみもとに走ってゆき、こう叫びます。「これまで
しばしばわたしを助けられた主よ、今わたしを助けてください」。(こうしてあなたに、「わたし
は自由でした。神よ、今来てください。わたしが助けをうけられるように」と叫ばせる)心のうち
にあるうえかわきは希望です。この希望は恥に終わることがありません。なぜなら、神はこのよう
な人をかならず助けられるからです。
こうして神は死の下に生命をかくし、よみの下に天国をかくし、愚かさの下に知恵を、罪の下に
恵みをかくしておられます。
1527年の説教から