なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(25)

       使徒言行録による説教(25)、使徒言行録7:9-16
              
・今日のところもステファノの説教の続きになります。アブラハムに続いて、今日の個所では、アブラハムの孫の代ヤコブとその子供たちに起こった出来事が記されています。それはヤコブ一族のエジプト移住です。

アブラハムへの神の約束は、子孫にカナンに住むべき土地を与えるというものでした。けれども、アブラハムへの神の約束を引き継いだヤコブの代になって、一族はエジプトに移住することになってしまうのです。創世記ではヨセフの物語という形で、そのことが語られています。先ずヨセフ物語を思い起して見たいと思います。

ヤコブには12人の子供がいました。ヤコブはその12人の子供の中でも年を取ってから授かったヨセフを大変かわいがっていました。ヨセフの下には一人の弟がおり、上には10人の兄がいました。ヨセフは兄たちからねたまれて、殺されそうになったあげくにエジプトへ行く奴隷商人に売られてしまいます。そして、エジプトで奴隷として働かされたり、無実の罪で牢屋に入れられてしまうという苦難を経験します。

・ところが、神はヨセフを見捨てませんでした。ある夜エジプトの王のファラオは夢を見ます。七頭の肥えた雄牛が七頭のやせた雌牛に食いつくされてしまう夢です。また、七つの実のった穂が七つのひからびた麦の穂に飲み込まれてしまう夢です。ファラオはエジプトの夢解きを呼んで、自分の見た夢の意味を解かせますが、彼らからは王が納得できる夢解きを得ることができませんでした。その時、以前牢に入れられて、ヨセフの夢解きによって復帰できた王に仕えていた人が、牢にいるヨセフのことを思い出し王に言います。そこで、ヨセフは牢から王のところに連れて来られ、王の夢解きをします。そのヨセフの夢解きが王に認められて、その後ヨセフはエジプトの家全体をつかさどる大臣になり、七年の豊作の時に倉庫に貯め込んだ食料によって、その後の七年の飢饉を乗り切ることになります。

・他方、ヨセフを奴隷として売った兄たちが住むカナンの地に、エジプトと同じ飢饉が襲い、父ヤコブをはじめ兄たちは日々の食糧にも事欠くようになります。そこで、父ヤコブの命令で兄たちはエジプトに行って、食料を売ってくれるように願います。ヨセフの知恵によってエジプトでは豊作の間に食料を貯蔵していたからです。そのエジプトの食料を管理する責任者がヨセフでした。食料を買いに来た兄たちをヨセフはすぐに分かりましたが、ヨセフは身元を明かさずに、食料を売ってやるから、十二人の兄弟の末っ子であるベニヤミンを連れてもう一度来るようにと命じ、それまでは兄の一人を人質にして牢屋に入れると厳しく言いました。

・兄たちはエジプトの大臣が彼らの家の事情をすべて見通していることに驚き、カナンの地に戻りました。やがてエジプトで買った食料を食べ尽くしてしまうと、兄たちは再びエジプトに食料を買いに行きます。そのときにエジプトの大臣から命令を受けていたので、父ヤコブの反対を押し切って末っ子のベニヤミンを連れて行きます。父ヤコブはベニヤミンが捕まえられて再び帰ってくることができないのではないかと心配して反対したのでした。再び兄たちと対面したヨセフは、或る計略を使って、弟ベニヤミンだけがエジプトに残らざるを得ないようにします。そして兄たちに食料を与えて帰そうとします。

・ところが、ユダという兄が、弟ベニヤミンをエジプトに残したならば父ヤコブが悲しみの余り死んでしまうから、自分を弟の身代りに奴隷として使ってくださいと申し出たのです。ヨセフはこの兄の誠意に心を打たれて、「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです」(創世記45:4)と自分の身の上を明かします。そして、「しかし、今は、わたしをここに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先に遣わしたのです」(45:5)と言って、兄たちを赦します。それだけではなく、父ヤコブも連れてエジプトに来て一緒に暮らそうと呼びかけるのです。「そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました」(使徒7:14)と今日の個所にも書かれている通りです。こうしてヤコブ一族がエジプトに寄留することになるのです。そして皆エジプトで死んで、神の約束の地カナンのシケムに葬られたというのです。

アブラハムの物語に続いて、このヨセフの物語を想い起すことによって、ステファノの説教では何が語られているのでしょうか。

・高橋三郎さんはこのように語っています。「マタイによれば、サンヒドリンの指導者たちがイエスをピラトに引き渡したのは、妬みのためであった(27:18)。その同じ道を、やがてヘレニストの信徒たちも、歩まされようとしているのである。ピシデヤのアンテオケにおいて、パウロバルナバの宣教活動が大きな成果を収め、全市をあげてその話を聞きに集まってきたのを見たとき、ユダヤ人たちはこれを妬ましく思い、この二人をついに追い出してしまった、とルカは語っている(13:45)。しかしながら、神はあらゆる苦難からヨセフを救い出し、恵みと知恵をお与えになって、ついにエジプトと王の家全体をつかさどる大臣につかせたように(10節)、迫害される信徒の群れにも、同じく神の恵みがゆたかに与えられることを、この記事は予表(あらかじめ表わ)している。そして、エジプトに売られたヨセフは、実は父や兄弟たちの飢餓の苦しみから救い出すべく、神によって準備されていたのであり、最後は和解によって、家族の一致が回復された。それと同様に、いま迫害下に散らされようとしている信徒たちも、やがて同胞の救いのため、道を備える者としての課題を、担うことになるであろう」と。

・また、三好明さんという人は、「このヨセフの物語は、旧約聖書の中でも最も劇的なものの一つですが、神の民の指導者は苦難を受けるものだということがよく表れています。すなわち、エジプトで大臣となって父親と兄弟たちをエジプトに呼び寄せて救うヨセフは、若い日に兄たちから排除され、奴隷として売られ、エジプトでは無実の罪で牢屋に捕らえられて、大きな苦難を受けました。しかし、その苦難を神の御旨として受け止めて従うことによって、逆にヨセフは神の民の飢饉の苦難から救う者となったのです。ここには苦難を担う者こそ神の民のまことの指導者であるということがよく表れています。/ステファノはこのヨセフの物語をとおして、神の民がいかにその指導者を迫害するか、それにもかかわらずその指導者は神の民に先立って苦難を受けることによって、神の民を救う者となるのだと言おうとしているのです。そして、ステファノはおそらくイエス・キリストの受けた苦難のことを暗示しているのでしょう」と。

・確かにそれぞれそのようにこの個所を読むことができるかも知れません。けれども、ステファノの説教は、使徒言行録では、何よりも「彼が神殿(聖なる場所)と律法をけなして、一向にやめようとしません」(6:13)という非難に答えるための弁明の意図をもってここに記されています。ですから、この族長物語の部分には、「神殿がまだ存在していないこの時代にも、カルデヤからエジプトに至る、神を信じて歩んだイスラエルの族長たちの歴史があり、ここでは神殿に拘束されてはいないということが証しされているということではないでしょうか。また、イスラエルの歴史は、神とその意志に対する服従と反抗の間の深い分裂葛藤によってみたされているということをこのヨセフ物語から読み取れるのではないでしょうか(バイヤー)。

・とすれば、私たちは、ユダヤ教の神殿宗教と同じように、ヨーロッパ中世以来からの尖塔のある壮大な教会堂とその社会の中で中心を占めた宗教としてのキリスト教への憧れから自由になって、また、律法に等しい教会の伝統を重んじつつもそこからも自由になって、幕屋の教会、家の教会という原点を忘れずに、神の約束の実現成就を望み見て、旅する信仰者の群れとして歩んでいくことではないでしょうか。

ヘブライ人への手紙は、族長たちの生き様を次のように述べています。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(11:13)。そして、さらにイエス・キリストが神の民に先立って苦難を受け、天の都への道を開いてくださったのだということを述べた後、「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱しめを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上には永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです」(11:13-14)と呼び掛けています。

・ここには、今この地は、私たちキリスト者にとっては安住の地ではないということが、はっきりと語られています。エルサレム神殿と律法によってユダヤ人は宗教的な神聖国家のようなものをこの地上に築こうとしていたのではないかと思います。神の約束を信じる者は、そうではないと。常にこの地上の秩序を脱出して、神のみ心にふさわしい神の国を求めて、その途上を歩んでいくのだと。

・その時には、「イエスの受けられた辱しめ」、つまり、「自分の十字架を背負って、私の後に従って来なさい」というイエスの招きに答えて十字架の苦難を担わなければなりません。未だ見ぬ神の約束を信じて、この地上を旅人・寄留者として生きるということは、そのようなことではないでしょうか。

古代イスラエルの民は、自分の土地を持たないまさに寄留者でした。寄留者は古代の社会の中では最も命と生存の保障を持たない弱く小さな人たちでした。神はそのような者を選び、約束の民にしたのです。ですから、この世で弱く最も小さくされている人々の命と生存が守られることが、神のみ心の支配する神の国の成就なのです。その約束を信じてアブラハムも族長たちもそれぞれの歴史を生きたのです。

・イエスはそのことをこの世の只中に於いて、この世で弱く最も小さくされている人々と共に生きることによって、実現成就しました。イエスにおいて神の約束は神の国の到来という形で実現成就しているのです。そのことを信じ、なおまだ人間の驕りによる神への反逆が終わらないこの時代と社会の中で、イエスの歩んだその歩みに私たちなりに従いながら、その信仰の旅を続けて行きたいと願います。