なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(208)復刻版

 先週の火曜日ごろから本格的な咽喉の痛みと咳に見舞われましたが、一週間でようやく回復してきまし

た。今日は「黙想と祈りの夕べ通信(208)」復刻版を掲載します。これを読んで、私が神学校を出て

最初に赴任した教会でのことを思い起こしました。特にF先生との出会いは、私の中では私自身の自己形

成にとって大変大きな比重を占めています。F先生は今は天上に人ですが、先生を思い起こし度に感謝の

気持ちで一杯です。



         黙想と祈りの夕べ通信(208[-51]2003.9.21発行)復刻版

 昨日の土曜日(9月13日)、私は神学校を出て最初に牧師として5年間働きました東京の足立区にありま

すA教会の創立50周年の集会に講師として呼ばれ、行ってきました。今A教会は無牧の状態です。大変暑

い日でしたが、午後3時からの集会に30人ほどの人が集まり、集会後懇談の時を持ち、午後6時過ぎまで旧

交を温めました。創立35年周年の時に、自宅を開放してA教会をはじめ、実質的に1993年頃までA教会の

牧会に責任を持ってこられたF先生がA教会小史を書いて『A教会の歩み』(1993年3月発行)に載せて

います。その小史の結びに、私が名古屋のG教会時代に求められて寄稿した「型破りの教会として」とい

う文章が載っています。私はその紀行文でA教会の特徴を、F先生の方針との関わりで二点挙げました。

一つは、「A教会が、F先生の良き導きによって、『ありのままのその人を大切にする教会である』とい

う点です」。もう一つは、「教会は、制度的なものも最小限必要としますが、何よりも、人を媒介とし

て、イエス・キリストの福音が伝えられるわけですから、小さなイエス生きようとされているF先生や、

その同じ道を生きようとする信徒が、A教会の中に一人でも二人でも多くなることが、あの良き伝統が今

後も継承されていく要ではないか」と書きました。現在のA教会は宗教法人格を取り、F先生の自宅兼教

会堂のあった場所に三階建ての建物が建っています。先生は新会堂を教会員と共建てて、牧師を退任し、

後任に託しましたが、その後二人の牧師が来ましたが、二人とも数年で自任しています。A教会のことを

覚えて祈っていただければ幸いです。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。今日は疲れていたので、ぼうっとテレビを

観ていた。ワールドニュースで、DNA鑑定で、八万年前の同じ母を持ったアジアの女性と出会う。聴覚

障がいのために手話でコミュニケーションをとる日本人の女性のことを放映していた。カザフスタンの女

性の家に日本人の女性はホームステイし、そこで客人を歓待するために、羊が屠られる。無駄なくすべて

を使って料理する。カザフスタンの家族は、子育てを大事にし、家族の中で子どもが学び、マナーを身に

着けて、次の世代へと継承していく。その家に嫁いだ女性も、寒い中でパンを焼き、わら仕事をしてい

る。日本人の女性がお礼として日本料理である肉じゃがを料理してその家族にふるまう。みんなが和やか

に彼女と手振り、身振りで話すようになる。男性が中心にいるのだが、綿々と命を紡いでいるのは女性た

ちの働きが大きく映った。もう一つ、ワールドニュース北朝鮮の建国パレード、ブレア首相の情報操

作、ブッシュ大統領のことなど、情報が操られ、武力で他国を攻める、そういう世界が一方にあり、かた

中央アジアの命を紡いでいく世界があることを考えさせられる。女性が命を大切にする生の原点に立ち

返って、命を紡ぐことの大切さを創り出さなくては、世界がどういう方向に向かっていくのか不安であ

る。情報に惑わされることなく、一人一人の命を大事にし、そのことを次の世代へと伝えて行きたい。

 またもう一人の方からの発言がありました。今日は婦人会を早めに失礼し、県民ホールのオペラを観に

行った。去年は席の後ろの方だったが、今年は前の方で観た。感動した。良い時を持った。余韻が残って

いるうちに、一緒に行った教会員7人でお茶を飲み、楽しい時を過ごした、家に帰ったら6時35分だった。

あわてて教会に来た。教会に連なっていて、よかったと思っている。


        「わたしの内なる霊」(『ルターの日々のみことば』より)

 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。    ヨーマ8:26

 だれでも自分がすべての罪、肉欲、悪しき思いから解放されるべきであると考えてはいけません。かえ

ってこうした自由を切望し、「ああ、ただわたしが罪から逃れることができさえすれば」と神に叫ぶこと

を、続けなければなりません。聖霊の声は、このように終末の日までわたしたちの中で叫ぶでしょう。で

すから罪はいつまでも、あわれなキリスト者であるわたしたちのうちにとどまっています。わたしたちは

罪に陥ります。しかしそれは故意や、あるいは邪悪からではなくて、弱さからです。神はそれを十分にお

ゆるしになることができます。それゆえにわたしたちのうちに聖霊のあかしを持っていることは、最上の

慰めです。それはわたしたちがこまって神に呼び求める時、神はわたしたちを恵み、助けたもうことを意

味しています。そこでわたしたちは神に信頼することができ、神はわたしたちを見捨てたまわないことを

知ります。こうしてわたしたちは、真のキリスト者であることを示すのです。

                              多くの重要な問題について