なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(116)

          船越通信癸隠隠供 。横娃隠廓7月7日       

・30日の日曜日は礼拝後何時ものように礼拝出席者でお茶とお菓子を頂きながら雑談をしばらくしてから、散会しました。このところMさんが続けて礼拝に出席しています。うれしいことです。この日私は比較的早めに船越教会から鶴巻に移動することができました。

・暦が替わり7月に入り、2日の火曜日は朝から夜遅くまで三つの責任を果たしました。
某神学校の朝のチャペルでの説教、午後の説教演習、そして夜の神奈川教区常置委員会への陪席です。朝8時半過ぎに鶴巻のマンションを出て、一度荷物を置きにマンションに戻りましたが、常置委員会とその後の有志による会食を終えて、鶴巻のマンションに帰ったのは午前0時近くになっていました。さすがにこの日は大分疲れました。

・この日の常置委員会は、6月29日の第130回教区総会が終わった直後に開かれましたので、比較的議事の数が少な目でしたが、午後6時から始まり8時半過ぎまでかかりました。神奈川教区には特別積立金と任意積立金があり、特別積立金の使途は教区総会の議決で、任意積立金の使途は常置委員会の議決によって行なわれることが慣例となっているようですが、それを教区規則に明記しておくべきではないかという意見が出ていました。そのことと、将来教区内と教区外で起きた災害救援の場合、その初動においてこの二つの資金からいくら出せるか、その場合議長の職権で出せるのは幾らか、ということが重なって教区規則の原案が出て来たものですから、ああだこうだということで、最終的にはもう一度原案を練り直すことになりました。少しでもお金がからむと、教区も一つの組織体ですから、合意形成がなかなかむずかしいものだと、改めて思わされました。むしろ使途の名目がはっきりと決まっていない、いわば余剰金のようなものは、元来持たない方がすっきりするのかも知れません。神奈川教区は、2012年度の決算でも余剰金が約300万円出て、それがそのまま特別積立金に繰り入れるということで教区総会の承認を取っています。特別積立金は、現在のプレハブの教区事務所をいずれ建て変えなければならないので、そのための準備金という意味合いもあるという意見もありますが、必ずしもそのように教区としての合意があるわけでもないようです。このようにお金にまつわる問題は、なかなか難しいものです。

・さて、1日から2日にかけて教団の常議員会が開催されました。2日の常置委員会でもその常議員会に出席した神奈川教区のH議長から簡単な報告がありました。私が気になっていましたのは、昨秋の第38回合同後23回教団総会の議案第32号「『信仰告白』と『教憲・教規』における洗礼と聖餐の〈一体性と秩序〉とを確認する件」が、常議員会提案で審議出来なかったので、おかしなことですが、常議員会付託になっていることです。2月の常議員会では、7月の常議員会でこの議案に基づいて、教団内の諸教会伝道所へ向けての何らかの文章をまとめるようなことを話し合ったということを聞いていましたので、何か出て来るのではと思っていましたが、どうもそういう文章は作っていないようです。ただ議場の意見として、「各神学校には聖餐につていの公式見解を伺いたいと思っている」というような意見が出ているようです。私の裁判については、総幹事報告の中で、「北村裁判について、東京地裁において2月25日に判決が言い渡され、原告(北村氏側)の訴えがいずれも却下されました。北村氏はこれを不服とし控訴し、6月3日に東京高裁で第一回口頭弁論が行われて結審し、7月10日に判決が言い渡されることになりました」という事実報告だけはなされているようです。

・この週は6日の土曜日に私の上の姉(この姉も十数年前に召されていますが)の連れ合いで、2年前に亡くなった義兄の3回忌法要が伊勢原のお寺であり連れ合いと一緒に出席しました。そのために5日の金曜日夜に鶴巻に帰り、その法要が終わってからまた船越に移動しました。

・さて、鶴巻と船越の移動の電車の中で、少しずつ読んでいました、天野有さんが訳した「バルトセレクション」の『教会と国家供戮鯑瀕擦靴泙靴拭J幻鉾任箸聾世─630頁近くありますので、随分長くかかりました。この本の「編訳者あとがき」で天野氏は、バルトの中にも時代や場所性による限界(バルトの対イスラーム発言~ムスリムに対する差別的な言明~のような)があるにしても、「本巻を当時の第一級の神学『資料』としてお読みいただきたい」と述べ、「・・現在~とりわけ3・11以後!~、多くの重い課題に囲まれている私たちが、これからをどのように生きていくべきかを聖書から聴きとるためである、と。そのためのきわめて大きな手助けをしてくれるのが彼だ、ということを、私は改めてこの二年間、本巻および『教会教義学』の種々のテキストを通して繰り返し実感させられてきた」と言っています。更に続けて天野氏はこのように述べています。「もし私たちが、彼のその都度の『今日の神学的実存』から発せられた言葉を聴こうとはしないなら、彼がそのためにこそその言葉を語らざるをえなかった事柄・闘いを理解しようとしないなら、そして、それに励まされつつ、今ここで私たち自身が問われている事柄・闘いに立ち向かい参与しようとするのではないなら、私たちは彼を根本的に誤解したことになるだろう。その意味において、私たちが今最も必要としているのは、(教会に連なる)『キリスト者』として生き闘うための最良のテキストであり、本『セレクション』シリーズが目指すのもまたそのことに尽きる」と。天野氏は、今私たちは聖書に聴きつつこの困難の山積している現実を生き抜こうとするときに、バルトの諸著作は確実に私たちの手助けとなると言うのです。この天野氏のバルトに対する熱い思いは、既に天上の人となっている井上良雄先生のものと相通じているように思えました。

・私はこの週に、以前に途中まで読みかけていましたツィンクの『いばらに薔薇が咲き満ちる』という「神秘主義キリスト教の将来」という副題のある本も読了しました。この本の訳者宍戸達氏は、「訳者あとがき」で、このように記しています。「…カール・バルトの『教会教義学』を全巻読み通した人はドイツでも多くないというが、ツィンクはその数少ない読者の一人であり、ちなみに結論として、これはもはや今の時代には適応しないと彼は語っている」と。ツィンクがどういう意味でこのように語っているのかを知りたいものです。