なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(279)復刻版

 今日の黙想と祈りの夕べ通信は、できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思います。


        黙想と祈りの夕べ通信(279[-18]2005・2.6発行)復刻版

 勢子浩爾という人が『生きていくのに大切な言葉吉本隆明74語』という本を出しています。最近本屋の

書棚で見つけ、読んでみました。著者は本書のまえがきで、「ひとりの自分、そしてひとりの他人を生き

るものにとっては、人間の存在や日々の生活の本質を透徹するような思想こそが思想なのである」と語っ

ています。そしてそのような思想を吉本の中に見出しているのです。本書を読んでみて、私が吉本のもの

を読む構えとこの著者の構えが似ているように思いました。若い方には是非読んでみてもらいたいと思い

ました。

 著者が第一に取り上げました吉本の言葉は、「結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてく

たばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者

が、いちばん価値がある存在なんだ」です。多分これが吉本が「大衆の原像」と呼んでいるものなのでし

ょう。この言葉の著者の解説の中には、吉本の若いときの次のような言葉も紹介されていました。「僕

は、生れ、子を生み、育て、老いたる無数のひとたちを畏れよう。僕がいちばん畏敬するひとたちだ」。

繰り返して読めば読むほど、私もこの言葉に共感します。しかし、現実の人間はこのような大衆の原像か

らすれば、どこかに何らかの逸脱を抱えて生きているのではないかと思います。吉本自身もそのことに触

れています。そういう意味では、これは理念型として言われていると思われます。理念型ではあっても、

こういう人間の人生の平凡かつ非凡な在り様にいちばんの価値を置いて生きるその人の眼差しは的を得た

ものと言えるのではないでしょうか。キリスト教界の中にもときどき教育や福祉の働きによって叙勲を受

けたと言って喜んでいる人もいますが、この吉本の眼差しの方がはるかにイエスさまに近いのではないか

と思えてなりません。著者はこの吉本の言葉に対して、「『そんなどこでもある平凡な生活のどこに価値

があるんだ』とか『いちばん価値があるどころか、もっとも唾棄すべき生活ではないか』と納得しない人

がいるだろうと思う」と述べて、以下のように記しています。「たしかにこの言葉にはなんの根拠も保証

もない。なんとでも反論は可能だ。ただ吉本がそのように考え、そのように思い決めた、ということだけ

でしかない。けれど、生きることに関するすべての問題で大切なことは、ついにこの視線の決め方であ

り、こころの決め方である。人間の認識の仕方であり、人生への視線の向け方である。受ける側にとって

は、このような言葉を『自分』が身にしみて納得するしかその言葉に感応できるかできないかの問題であ

る。そしてたぶん、感応するには感応するだけの資質と能力が必要なのだ」。
 
 この著者の2番目に選んだ吉本の言葉は以下のものです。「市井の片隅に生まれ、そだち、生活し、老

いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値と

まったくおなじである」。なんて素敵な言葉でしょうか。著者はこの言葉の解説の中に次のような吉本の

言葉を引用しています。「(三島由紀夫にふれて)世界的な作家といわれ、社会的な地位や発言力をもつこ

とよりも、自分が接する家族と文句なしに円満に、気持ちよく生きられたら、そのほうがはるかにいいこ

となのではないか。そんなふうにぼくは思うのです」。そして著者はこのようにしめくくっています。

「いかが? これが吉本隆明である。けっして大げさではなく、ここまでに挙げたふたつの(『人生の価

値』と『人間の等価性』)の言葉さえもっていれば、人生の基本をほぼ動揺することなく生きていくこと

ができる。完全に、地に足がつくのである。そしてこれは極端な言い方になるが、このふたつの言葉さえ

おさえておけば、思想家吉本隆明の根本を押さえた、とおもっていい、吉本隆明という思想家の偉大さ

は、このふたつの言葉に尽くされている、といっていいからである」。

 どうですか? いいでしょう!