なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(325)復刻版

 昨日の日曜日で2013年の主日礼拝は最後でした。年末の日曜日でしたので、出席者は少ないと思っ

ていましたが、意外に10名の出席者があり、最期の礼拝を共にいすることができました。そのうちの2名

は、私が船越の牧師として働くようになる前からの繋がりの人でした。礼拝後お茶を飲みながら懇談し

て、散会しました。

 2013年も、後一日で過ぎ去ろうとしています。今年は私にとっても、裁判が一審、二審とも却下さ

れましたので、厳しい年だったと言えるかもしれませんが、それ以上に、昨年末誕生した第二次安倍政権

の暴走によって、一挙に日本の国の保守化、軍国主義化が進行し、これから大変厳しい時代になっていく

ようにに思えます。一度政権をとった民主党の失政によって民主党自体が分裂状態で、現在与党である自

民党、公明党に拮抗する野党が不在のまま、この状態がしばらくは続くのではないかと思われます。安倍

政権は、来年4月からの消費税増税の反応を見て、場合によっては集団自衛権の問題から憲法改悪へと突

き進んでいくかも知れません。その監視を強めるとともに、国政とは別に平和を造り出す運動に私たちは

ますます力を入れていかなければなりません。



         黙想と祈りの夕べ通信(325[-12]2005・12.18発行)復刻版


 今日K・Uさんのご子息が献金を届けてくれました。事の方がいませんでしたので、私が受け取り、事務

室で少し話をしました。Uさんは比較的お元気で、ご子息は1月1日がUさんのお誕生日で来年は満99歳にな

り、あと一年で100歳になるので、それまでは元気でいてもらいたいと、おっしゃっていました。K・Uさ

んは旧満州からの引揚者家族です。引き上げで大変苦労されたお話は、以前にUさんから伺ったことがあ

ります。ご子息も満州時代の記憶が少しあるようです。敗戦によって自分たちの住んでいた家に中国人家

族が住むようになり、たまたまその中国人がクリスチャンであったということもあって、自分たち家族も

その家に同居するような形で住むことができたということです。敗戦後の満州開拓団の逃亡生活の悲惨さ

は本でも読んだことがありますが、ご子息は中国人よりもロシア人兵士の方が日本人にとっては暴力的だ

ったとおっしゃっていました。実際自分の住んでいた家にも暴力を受けた女性が休んでいたことがあった

そうです。隣の家には日本人の医者家族が住んでいて、その専門技術を中国人が必要としたので戦後もし

ばらくは中国に留まっていて、戦後10年くらい経ってから日本に帰ってきたそうです。確か先年召されま

したO・Sさんも戦後数年眼科医として中国で働いたとおっしゃっていました。上記の女性もお医者さんも

帰国後Kさん家族を訪ねてくれたそうです。中国における日本軍兵士の暴力的行為が目に余るものがあっ

たことは、高岩仁さんの教えられなかった戦争シリーズ「中国編」に明らかです。Kさんのご子息は私と

同じ1941年生まれです。私たちの世代が戦争体験を少しでも持っている最後の年代であることを、しみじ

みと感じました。絶対に戦争はダメだということを言い続けなければと、改めて思わされました。

上記の私の発言に続いて次のような発言がありあました。常置委員会でF・Kさんが補教師試験受験志願

者の面接で、「教会には性差別があるかどうか」と質問をしたら、殆どの人が「ない」と答えたという。

それを聞いてショックを受けた。教区ではセク・ハラの相談窓口をつくろうとしているのときに、補教師

試験受験志願者の意識がそういうことだとすると、そのギャップは何なのかと思う。教会には性差別がな

いと答えた人は、聖書の中にある女性差別も、女性として生まれることによってこの社会の中で苦しまな

ければならない事実に全く無感覚なのかと考えると、恐ろしい。最近観た映画「ヴェラ・ドレイラ」物語

の舞台は、1950年のイギリス。ヴェラ・ドレイラは、愛する夫、息子と娘に囲まれて、家政婦をしなが

ら、病気で動けない近所の人たちを訪ねては甲斐甲斐しく世話を焼き、いつも笑顔を絶やさない。彼女

は、望まない妊娠をした女性たちの堕胎を“助けて”いたのだ。ある日、その中の一人の体調が急変して

病院に運ばれ、彼女は逮捕され、裁判にかけられる。取り調べる警察官まで彼女の純真な姿に刑は重くな

らないという。けれども2年半の実刑を受ける。息子は母を責める。女同士で苦しみを分け合い、助け合

う時にクールに裁くのも男性である。私自身直接差別の痛みを感じない時にも色々な同性の痛みに心が痛

む。牧師になろうとしている人が性差別は教会には無いと言えるとしたら、実際に性差別に苦しんでいる

人の現実をどう受け止めるのだろうか。私は性差別の何が出来るか分からないが丁寧に考え見つめ問題を

担って行きたい。

別の方から、以下の発言がありました。今晩の聖書箇所にイエス・キリストの福音の厳しさをあらためて

感じた。踏みつけられている、痛みを背負わされる存在はとかく見えなくされる。女性たちの苦しみもそ

うである。そこにあるのにないもののようにされてしまう。見えなくされているものに気づく感性がある

かどうか、自分自身も問われている。痛み苦しみの最も深いところにイエスが立って待っている事を信じ

て、自分が出会う一つ一つのことに向き合っていきたいと思う。