なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(462)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(462)復刻版を掲載します。2008年8月のものです。

 先週は私の支援会の意見広告や支援会通信号外原稿のまとめなど、あわただしく過ごしました。また教

団教師委員会からの面談申し出もあり、その対処もありました。12日の土曜日にはわざわざ教師部委員

長から電話があり、私は伺うと答え、教師委員に手紙で質問をしているので、面談ではそれについての回

答を得たい旨話しました。ところが、昨日船越から鶴巻に夕方帰ってきたところ、私が出した教師委員か

ら、私が送った封書を開けないでそのまま、封書の宛名の下に、「私は教師委員ではありませんびで、返

却します」と書いて、返却されてきました。私はその方に電話で謝りました。どうも私が見た教団年間は

2013年度のもので、第37回総会期の委員だったようです。委員長は同じでしたので、委員も同じだと思

って出しししまったのです。委員長に届いていると思いますので、私の郵送物が届いていない委員の方に

は、15日の面談の時に事情を説明したいと思っております。この教師委員会での私の面談にいて、いろ

いろ心配してくださる方もありますが、私の戒規免職処分後、現教団執行部側の人たちと話し合う機会が

ありませんので、この面談がそのよい機会にもなればと思ったりしています。教師委員会が形式的に私と

面談したということで、また形式的に北村は悔い改めていないから、免職から除名にするということにな

るかも知れませんが、最初から教師委員を見くびらないで、面談という話し合いに臨みたいと思っています。


       黙想と祈りの夕べ通信(462[-44]2008・8・3発行)復刻版


 27日夜にかながわ明日の教団を考える会がありました。そこで私の教師退任勧告の問題が話し合われまし

た。7月の常議員会で勧告から教師委員会へ戒規申立を行うことが決まりました。この時も、再勧告への私の

回答を一切無視し、回答前に常議員会の議題が送られてきましたが、その中にすでに「北村慈郎教師に対す

る戒規申立てを行う件」という議題がありました。そして常議員会では4月末から6月にかけて行われた諸教

区の総会での議論や決議には全く触れないで、すでに用意されていた議長提案議案には「戒規処分申立書」

なるものが議長名で教師委員会委員長宛に文書化されていました。常議員会では驚くべき強権的な議事運営

が山北さんによって強行されています。かながわ明日の教団を考える会では、現在の状況の中で何ができる

かということを主に話し合いました。会の終わりごろ、Iさんが発言しました。今までの話し合いは、実行論

的な論議に終始していたように思われるが、聖餐の問題であるのだから、実存論的な論議の展開もあってよ

いのではないかと。今自分が所属している教会では年11回聖餐式を行っているが、受難節の時だけクロー

ズの聖餐式を行い、後はオープンの聖餐式をしている。北村さんだけではなく、自分もしていることを表明

していきながら、北村さんの教師退任問題に関わっていきたいと。何であれ、一つの問題に関わっていくと

きに、政治的な側面と主体的な側面があると思われるが、Iさんは政治的な側面の話し合いに終始していたと

ころに、主体的な側面からの関わりを忘れてはならないと言いたかったのだと思います。このことは私も大

切にしてきましたし、これからも大切にしていきたいと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。先日寿青年ゼミが一泊2日であり、初めて参加し

た。普段会えない人と会えて楽しかった。2日目の午後には、小学生から年配の人まで幅広い参加者によって

話し合うことができてすばらしかった。紅葉坂教会に来るようになって1年になるが、青年ゼミで紅葉坂教会

から参加していた一人の方と話せてよかった。別の話だが、ある写真週刊誌にみずほ銀行の頭取の女性問題

が報じられていた。政治家や官僚が同じことをしたり、居酒屋タクシーのようなことで、メディアでは大騒

ぎをし、バッシングするが、みずほ銀行の頭取のような民間人はいいのか。みずほ銀行は三行が合併し、そ

の間厳しいリストラを進め、労働者を切り捨ててきた。そのようなリストラで利益を得ている銀行の頭取が、

都心の一等地に女性との逢引部屋を持って密会場所にしているなんて言語道断である。自分としては許せな

い。格差が広がっている現在の状況を考えると、つらく、苦しく、希望がもてない感じである。

 もう一人の方の発言がありました。私が所属しているT教会の高齢の方が続けて亡くなった。今日昼の聖研

に出て、91歳の方が亡くなり、葬式も済んだことを知った。この方は80代に従軍慰安婦問題や横須賀の空

母反対運動にも参加した。土曜日の教会掃除にはみんなの食事を作ってくれた、本当に優しい人だった。交

通事故で突然亡くなったが、亡くなる前に息子に電話して、今の牧師に司式をしてもらってくれと伝えて亡

くなったという。その方の前に亡くなった方も、台湾から来られた方で、教会の柱となるような方であった。

来週8月3日は平和聖日で「平和を造り出す人」がテーマとなるが、高齢の方々の生き様を引き継いでいない

ので、中堅の人たちが何とか受け継いでいかなければと思っている。 
    

       「誰にでも開かれている扉」           8月3日


 イエスは、神の内にあって、神と共にある、いのちに到る扉です。「わたしは門である」(ヨハネ10:9)

とイエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、誰も父

のもとに行くことが出来ない」(ヨハネ14:6)。けれども、多くの人々は未だかつてイエスの言葉を耳にし

たことがなく、また耳にすることもないでしょう。多くの人々が生まれ、一生を送り、イエスとイエスの言

葉を知らされることなく死んでいきます。これらの人々は失われてしまうのでしょうか。父の家には、これ

らの人々のための場所はないのでしょうか。

 イエスは、神の家の扉をすべての人に開かれました。それは、扉を開かれたのがイエスであるということ

を全く知らなかった人々や、知ることもない人々のためでもありました。イエスが送られた霊は「思いのま

まに吹き」(ヨハネ3:8)、どのような人をも、その扉を通して神の家へと導いていくことが出来ます。



                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)