なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(482)復刻版

 土曜日のブログは、いつもは前週の日曜日の説教ですが、今日は「黙想と祈りの夕べ通信

(482)復刻版」を掲載します。2008年12月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(482[-11]2008・12・14発行)復刻版

 9日―10日と常議員会がありました。第34/19回、第35/20回総会期の第一回常議員

会では、わたしに対するパッシングが結構な時間をかけてありました。今回はそういうものは何も

ありませんでした。ただ私の戒規申立の無効が去る教団総会で議決されたからと言って、教師退任

勧告は生きており、教憲教規違反には変わらないのだからということが、数名の議員が強調しまし

た。教団総会については、聖餐式の時に配餐を断った人がいたとか、会場に出ないでロビーにいた

人がいたのは問題だという発言が目立ちました。また、常議員の一人からは、教団総会で補教師で

聖礼典を執行していることを公言した九州教区の教師がいるが、それを問題にしなければならない

という発言がありました。この種の発言する人はみな正常化の人たちで、何だか福音書に出てくる

ファリサイ派のひとたちと重なっているように思えてきました。ファリサイ派の人たちは当時のユ

ダヤ社会の中で律法の監視人のような役割をしていて、違反者を探し出しては罰していたというの

です。かつてはパウロもそういうことをしていたようで、教会の迫害者であったと、自分で語って

います。こういう人たちですから、命の問題にも敏感にはなれないのでしょう。私は西中国教区常

置委員会から頼まれて、比較的緩やかな米軍基地と取り組む議案を提案者として常議員会に出しま

した。他の議案の審議が余り無くて、45分私が提案者になって出した議案の審議をしてくれまし

た。しかし、採決の結果賛成12で否決されました。基地の問題は命にかかわる問題であり、教会

の宣教の課題そのものですが、正常化の人はそのようには考えないのでしょう。その違いがなかな

か埋まらないのが教団で、まだしばらくは徒労にかけるほかないのかもしれません。

 上記の私の発言に続いて、ひとりの人の発言がありあました。小室哲也が11月に逮捕された。

一時は「小室にあらずば人にあらず」と言われるくらいだったが、お金に困って詐欺容疑で逮捕さ

れた。持ち上げる時は、持ち上げるだけ持ち上げ、小室が逮捕されると、レコート店からもテレビ

からも小室の歌が消えた。今の時代クリエイターとして資本がヒット商品を小室に求め、作り続け

るだけ続けさせ、駄目になれば使い捨てる。小室も犠牲者の一人ではないか。経団連の御手洗のよ

うに労働者をふみにじって冨をえたわけではない。小室の方がましだ。世の中がおかしい。企業や

資本にすべてが従属してしまっている。別の話だが、5日ー6日と寿青年ゼミが行われた。初日は

炊き出し、二日目はバザーと体力が求められ、正直くたびれた。青年ゼミのレギュラーの人たちは

みなパワフルである。このくらいのパワーがないと、やっていけない。ソニーが16,000人の

解雇を発表した。5日の炊き出しに並んだ人は以前よりかなり増えた。来年どうなるか心配だ。行

き場のなくなった怒りが火を噴くのではないか。早く手をうたなければと思う。

 また、もう一人の方の発言がありました。今日も国会前に座り込みに行った。陳情に来た車椅子

の人が、座り込んでいる私たちのところに来て、米軍基地がいらないなら、日本が水爆や原爆をも

たなければならない。米軍が日本からいなくなれば、中国、北朝鮮、ロシアに攻められる。殴られ

たそうになったら、3倍の力をもたなければ抵抗できないと言い、その人は養護学校の教師に首を

締められ、いじめられた体験をしているという。力関係で論じても、兵器を持たなければ対抗でき

ないというのは、彼の小さい時の体験から出ているのだろうと想像した。弱い者が3倍の力をもた

なければという彼の言葉には、体の不自由なこの人が小さい頃にどんなに差別を受けて育ってきた

かが伺われて、つらく、ただ聞くだけで何も答えられなかった。私の辺野古基地建設反対の座り込

みにかける原点は父の戦死という小さい頃の体験がある。大人になっての行動の原点として小さい

頃の体験があるものだと思わされる。米軍が日本にいなかったら、どこからから攻められてしまう

。あなたたちは何故こんなことをしているのか。そういうこの人の言葉には、障がいをもって生ま

れたこの人の痛みが爆発しているのだろうか。大きな痛みを負わされた時に、その人がどういう道

をとっていくのか。グサッとくる経験として、そのことを伝えたい。 


          「天国と地獄」    12月月14日

 誰もがみんな最終的によくなるのでしょうか。誰もがみんな最終的に不幸な境遇から解放され、

足りなかったものはすべて満たされるのでしょうか。答えは「然り」と「否」です。然り、なぜな

ら神は私たちを神の国へ連れて帰ろうと望んでおられるからです。否、なぜなら私たちがそれを望

まないかぎり、何も起こらないからです。神の国の実現は神の業です。けれども、神がご自分の愛

を私たちの間に、目に見えやすく、手に取ることの出来るものとしてくださるためには、私たちは、

自分らしい愛し方をもって神の愛に応えることが求められています。

 死には二種類の死があります。一つは私たちを神の国へと導く死、もう一つは地獄へ導く死。ヨ

ハネは幻の中で、天国ばかりではなく、地獄をも見ました。「おくびょうな者、不信仰な者、忌ま

わしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う

者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である」(黙示録21:8)とヨハネは言

っています。もし神と共にいたいならば、私たちは神を選ばねばなりません。 


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)