なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(2)

      「二つの幻」エレミヤ書1:11-19、2015年3月15日(日)礼拝説教

・1967年のイースターに当時の日本基督教団総会議長であった、西方町教会鈴木正久牧師の名で出された

「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる戦責告白の一節に、「まことに

わたしどもの祖国が罪を犯したとき、わたしどもの教会もまた罪におちいりました。わたしどもは『見張

り』の使命をないがしろにしました。・・・・」とあります。ここに、戦時下の日本基督教団という教会

が犯した罪を、「『見張り』の使命をないがしろにしたこと」であると言われています。

・今日のエレミヤの召命の記事には、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」(エレ

1:12)と記されています。これはエレミヤに与えられた幻との関連で語られた言葉です。エレミヤは「諸

国民の預言者」として神によって立てられますが、その召命に当たって、二つの幻を神によって示されま

した。その一つが「アーモンドの枝」の幻です(エレ1:11,12)。

・神はエレミヤに「何が見えるか」と問われます(1:11)。エレミヤは「アーモンドの枝です」と答えま

す。アーモンドは春一番早く花を咲かせ、春の到来を告げます。アーモンドはヘブル語で「シャーケード」

と言います。この名と語呂合わせに、神は「わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)

」(1:12)と言われたというのです。ここには、神は歴史の転換をもたらそうと見張っておられる方だと言わ

れているのであります。聖書の神は歴史を導く神です。預言者はその導きに目醒めて見張っていなければな

りません。エレミヤはアーモンドの枝を見て、神が歴史を転換させようとしていることに気づくのです。

・エレミヤはこの召命の時から約40年間、預言者としての活動をつづけました。このエレミヤの預言者とし

て活動した時代は、正に激動の時代でした。100年近いアッシリア帝国の支配、アッシリアの平和が終わろ

うとしていた時期に、エレミヤは預言者としての召命を受けました。エレミヤが見た二つ目の幻は「煮えた

ぎる鍋」(1:13)でした。それは北からエレミヤの方に向いて傾いていました。その北の方から「災い」が襲

いかかることを意味しています。北からの災いは、当時コーカサスの北方からメソポタミア地方に侵入した

騎馬民族のスクテア人だと言われています。彼らはシリア、パレスチナ、エジプト方面まで来襲して、一時

全世界を恐怖に陥れたようです。しかし、彼らは各地を荒らしまわっただけで、組織的な侵略や占領はせず

、やがて引き上げて行きました。そのスクテヤ人を滅ぼしたのは、アッシリアの後新バビロン帝国と覇権を

競ったメディアの王キアクサレスであるとされています(ヘロドトス)。エレミヤの約40年にわたる預言活

動の最後の時期は、新バビロン帝国のネブカドレツァルによるエルサレムの主だったユダヤ人のバビロン捕

囚と重なっています。

・この激動の時代を約40年間もエレミヤは預言者として「見張り」の課題を担ったのです。戦責告白で「「

『見張り』の使命をないがしろにした」とは、戦時下の教団が預言者エレミヤのように、神の預言を語り続

けることによって、歴史に対する見張りの役割を果たすことができず、天皇制国家に妥協して戦争協力とい

う過ちを犯してしまったその罪責を言い表しているのであります。歴史に生きる教会は、神の言葉である主

エスへの信仰によって歴史を担っていかなければなりません。その主イエスに従って歩むという服従を曖

昧にして、ただ平安や慰めという「安価な恵み」によって教会を護ろうとする時に、実は教会は「キリスト

のからだ」である教会としてのアイデンティティーを失って、ただ単なる宗教集団になってしまうのです。

・宗教集団としての教会を護ろうとするならば、国家の強制が教会に強く及んでくるときに妥協せざるを得

ないのではないでしょうか。かつて戦時下に宗教団体法が出来て、宗教への国家の統制が強められていきま

した。その時に日本の教会は教会を護るために、宗教団体法による国家の統制下に入る道を選びました。そ

の決断によって日本基督教団が成立しました。礼拝にも宮城遥拝が取り入れられ、飛行機献納が行われ、天

皇制国家による戦争の勝利の祈願が、ほとんどその矛盾に気づくことなく各個教会において行われていたの

ではないかと思われます。

・先週の週報の船越通信で、現在の安倍政権の右傾化が更に進んで、憲法改定が自民党草案のように変えら

れて、今後日の丸君が代の強制が教会にも及んでくるような状況が起こったら、教会はどうするかというこ

とで、佐賀県のバプテスト同盟の教会の牧師さんのお考えを紹介しました。

・結論的には地下教会になって、信仰を貫く道を示しています。教会を解散し、個人としてのキリスト者

つながって聖書を読み、祈り、礼拝し行動するという道です。おそらく社会が国家統制の強くなった全体主

義的な社会になったときには、それ以外には信仰を貫く道はないだろうと思います。そうならないように、

私たちはキリスト者としても一市民としても最善の努力をしなければなりませんが、それでも歴史は繰り返

さないとも限りませんので、そうなった時のことも考えておかなければなりません。

・また、キリスト者個人としても、飯を食って生きて行かなければなりませんので、何らかの仕事について

収入を得なければなりません。飯を食うための仕事において、信仰に反することもしなければならない場合

もあるでしょう。その際、どうしても信仰を貫くとすれば、その仕事を辞めざるを得ないことになりかねま

せん。限度がありますが、この社会の中ではどんな仕事でも、信仰に矛盾しないでやれる仕事はありません。

矛盾を抱えながら生きていかなければなりません。必要なことはその矛盾に自覚的であるということではな

いかと思います。「大胆に罪を犯、大胆に信じる」ということが可能であるかどうか、その判断ができるの

は自分の仕事の矛盾に自覚的である時ではないでしょうか。エレミヤの場合にも、基本的には同じだったの

ではないでしょうか。食べて行かなければならなかったのですから。その使い分けは知恵に属する問題だと

思います。

・さて、エレミヤの「北からの災い」の預言は、スクテヤ人はユダを襲いませんでしたので、実現しません

でした。そのために、一時エレミヤは窮地に陥ったと言われます。エレミヤの召命の記事では、北からの災

いは後にユダ王国を滅ぼす新バビロン帝国の軍隊を指すかのように表現されています。15節の3行目からで

すが、読んでみます。「彼らはやって来て、エルサレムの門の前に/都をとりまく城壁と/ユダのすべての

町に向かって/それぞれ王座を据える」(1:15)と記されていますが、これはネブカドレツァルがエルサレ

ムを攻めるときの様子を示しているものとされています。しかし、これは後からの加筆変更であると考えら

れています。16節の「わたしは、わが民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。/彼らはわたしを捨て、他

の神々に香をたき/すでに造ったものの前にひれ伏した」も、申命記史家による付加とされています。

・いずれにせよ、エレミヤは神から委任された権威に基づいて、神の言葉である預言を語らなければなりま

せんでした。そのことは正にユダ王国の多くの人々と対立し、危険を冒して真実を語るということでした。

歴史の現実をありのままに認めると共に、民族の運命と人類の将来について、はるか遠くの未来まで見通し

て真実を語ることが、預言者エレミヤに委ねられた課題であり、責任でありました。17節から19節に神がエ

レミヤに語ったとされる言葉が記されています。そこをもう一度読んでみます。

・<あなたは腰に帯を締め/立って、彼らに語れ/わたしが命じることをすべて/彼らの前におののくな/

わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように。/わたしは今日、あなたをこの国全土

に向かって/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立

ち向かわせる。/彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。/わたしがあなたと共にいて救い出

すと/主は言われた。>

・前回取り上げましたエレミヤ書1章7節、8節にも、自分は「若者に過ぎない」と言って、神の召命を拒もう

としたエレミヤに向かって、このように神が語っています。<「若者に過ぎないと言ってはならない。/わ

たしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。/彼らを恐

れるな。/わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。>( 1:7,8)と。

・「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。この神の約束にエレミヤは自分を賭けていったのだと思い

ます。自分は「若者に過ぎない」とためらうエレミヤを、そのためらいを超えて預言者の任務に就かせたのは、

この神の約束です。「腰に帯する」は、通常、武装を意味すると言われます。預言者は、神の言葉によっての

み立ち上がって、諸国民、諸王国のあらゆる権力に、何一つ武器を持つことなく対峙しなければならない。こ

の無防備の若者を神は、この国の全土に対して「堅固な町」「鉄の柱」「青銅の城壁」として立ち向かわせ

ると、約束しているのです。

・この神の約束は、エレミヤと神ご自身との対話、祈りを通してエレミヤに与えられたものではないかと思い

ます。ですから、どこにも何の保証もありません。けれども、この神の約束に信頼して、エレミヤは預言者

して約40年間、その時代の変遷の中でその任務を全うしていくのです。ただエレミヤは、預言者イザヤのよう

に神の側に立って上から言葉を語るのではなく、預言者としての自分の職務の故に苦しみ嘆きながら、その職

務を全うしていた預言者だと言われています。私は行ったことがありませんので見ていませんが、ミケラン

ジェロが描いたヴァチカンのシスティナ礼拝堂の天井画に、エレミヤ像が描かれているそうです。地上の出来

事を鋭い目で見下ろすような預言者イザヤの図と異なって、エレミヤはかがみ込み、手をあごにあて物思い

に沈んでいるように描かれているそうです。エレミヤの40年以上にわたる預言活動は苦難の連続でありまし

た。次回からそのエレミヤの預言を時代との関連において読んでいき、そこから現代の私たちに対するメッ

セージを与えられたいと思います。