「木をその実の盛りに滅ぼし」エレミヤ書11:18-23節 2016年2月21日(日)船越教会礼拝説教
・エレミヤ書には、エレミヤが語った預言が記されていますが、神の言葉を取り次ぐ預言からしますと異
質な言葉で、エレミヤ自身の嘆願や祈りと思われます「エレミヤの告白」と言われる文書が、五か所に出
てきます。その最初のものが先ほど司会者に読んでいただきました今日の聖書箇所とそれに続く12章の6節
までになります。ですから、今日の聖書箇所は、エレミヤ書に出て来る「エレミヤの告白」の最初の前半
部分になります。
・エレミヤは「ベニヤミンの地アナトトの祭司ヒルキヤの子」(1:1)で、若い時に神の召命を受けて預言
者になりました。おそらくエレミヤは彼に示された神の言葉を純粋に熱心に人々に語ったに違いありません。
特に預言者として活動をはじめた頃は、彼自身も若かったので、彼の取り次ぐ神の言葉を聞いたユダの人々
がそれをどのように受け取っているのかということを気遣う余裕もなく、ただひたすらに神に示された神の
言葉を人々に語っていたに違いありません。
・それは、18節の<主が知らせてくださったので/わたしは知った。/彼らが何をしているのかを見せてく
ださった>と言われていることから想像できます。ここでエレミヤは、「主が知らせてくれたので、彼らが
何をしているのかを私は知った」と言っているのであります。そのように「彼らが何をしているのか」に全
く気遣うことなく、ただひたすら彼に示された神の言葉を取り次ぐことに専念していた自らの姿を、エレミ
ヤは19節でこのように語っています。<わたしは、飼いならされた小羊が/屠り場に引かれていくように、
何も知らなかった>と。この言葉はイザヤ書53章の苦難の僕の歌の一節にもあり、また十字架に至る苦難
の道を歩まれたイエスの姿を示すものとして新約聖書で引用されている言葉でもあります。「飼いならさ
れた小羊が、屠り場に引かれていくように」という言葉から想像することが出来るのは、小羊が犠牲獣と
してささげらものとされるために、何一つ抵抗せずに、屠り場に引かれて黙々と歩んでいる姿でありす。
・19節の後半ではこのように語られています。<彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。/木をその
実の盛りに滅ぼし/生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない>と。これはエレミヤ
の暗殺を意味するものと思われます。21節に<アナトトの人々はあなたの命をねらい>と言われているこ
とからも、そのように考えられます。福音書ではイエスもその故郷ナザレでは受け入れられなかったと言
われています(ルカ4:16以下)。ガリラヤで伝道を始めたイエスは故郷ナザレに来て、安息日に会堂で聖
書を朗読し教えを語りました。するとそれを聞いた人々は憤慨して、イエスを町の外へ追い出し、町が建
っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとした(ルカ4:28)というのです。福音書では<しかし、イ
エスは人々の間を通り抜けて立ち去られた>(ルカ4:30)と語られていますが、故郷ナザレの人々がイエ
スを崖から突き落として殺そうとしたと言われているのであります。故郷の人々から殺されそうになった
という点でも、エレミヤはイエスと同じだったというのです。
・エレミヤが故郷アナトトの人々から暗殺されそうになったというのは、歴史的にはこのようなことだった
と言われています。エレミヤが支持していたヨシヤ王の宗教改革が始まった後、二つの理由でエレミヤは迫
害と人々の嘲りにさらされたと言われています。<第一の理由は、(ヨシヤ王のエルサレムに聖所を集中す
る)宗教改革によって、地方聖所が廃止されることになったため、エレミヤの故郷アナトトの人々から、祭
司の家を裏切る者として攻撃されたのであります。それが今日の箇所の告白のなっているのであります。も
う一つの理由は、アッシリア帝国の衰退に伴い、ユダ王国には強いナショナリズムの気運が起こって来まし
たが、そのような流れの中で、初期のエレミヤの激越な形で語った「北からの災い」の預言は、一向実現せ
ず、善意から出た危機の警告に対して、悪意の避難、嘲笑を浴びせられることになったのです>(木田)。
・その時エレミヤはどうしたのでしょうか。アナトトの人々の暗殺計画を知って、どこかに逃げていくとか、
二度と預言活動をしなくなるとか、預言者としての神の召命からの撤退という道もあったのではないでしょ
うか。私の世代で若い時に召命を受けて決心して、洗礼を受けキリスト者になった人の中で結構多くの人が
大学を卒業して企業に就職して働くようになってから、礼拝にも来なくなり、教会から離れて企業論理に徹
して生きるようになっていきましたので、エレミヤの場合も神の召命からの撤退ということがあり得たので
はないかと思うのです。けれどもエレミヤはその道を選びませんでした。神の召命から逃避することなく、
そこに留まったのです。エレミヤ自身にそれだけの人間的な強さがあったということではありません。そう
ではなく、エレミヤはアナトトの人々による暗殺という恐れの中で、一人の弱さを抱える人間として神に訴
えたのです。
・20節にこう言われています。<万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。/わ
たしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/わたしは訴えをあなたに打ち明けます。/お
任せします。>と。エレミヤは「人のはらわたと心を究め、正義をもって裁かれる>神にすべてを委ねたの
です。ただ率直なエレミヤの思いは語っています。「わたしに見せてください/あなたが彼らに復讐される
のを>と。22節、23節をみますと、このエレミヤがアナトトの人々の暗殺計画を知って、その復讐を神に祈
ったことに対して、それに神が応えて、アナトトの人々を罰すると言われているのであります。<それゆえ、
万軍の主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らを罰する。/若者らは剣の餌食となり/息子、娘らは飢え
て死ぬ。/ひとりも生き残る者はない。わたしはアナトトの人々に災いをくだす。/それは報復の年だ」。
>。正義による神の裁きに委ねることによって、エレミヤは故郷アナトトの人々が自分を暗殺しようとして
いることを知ってからも、神の召命に留まり、預言者の活動を手放すことなく続けたのです。
・「本のひろば」という本の批評と紹介をする小冊子があります。3月号の「本のひろば」で関田先生が渡辺
兵衛さんという方の『あなたがたは地の塩である』という説教集を紹介しています。そこにイエスのゲッセ
マネの祈りについての渡辺兵衛さんの説教の一節を紹介してこのように記されています。<特に印象深く読
んだのは、「ゲッセマネで祈るイエス」の説教の中で、イエスの祈りの中に変化を認め、「アッバ、父よ、
この苦しみを取りのけてください」と祈ったイエスが、『祈り続けている間に、イエスの祈りの中身が次第
に変えられていきました。・・・『私の願いではなく、少しずつ心が安らぎ、恐れが和らいでいって、・・
・・それが神の御心によるものなら受け入れようとの思うになっていったのでしょう』(102頁)。このよ
うな説教者の自由な想像力による、イエスとの共感の場をもつことは、神学者や聖書学者の出る幕ではない
という事であろう>と。
・エレミヤもアナトトの人々による暗殺の危機に直面して、神に祈り、神の裁きによる復讐を祈りました。
復讐の祈りは復讐を目的とした祈りというよりも、神に一切を委ねたことを意味するのではないでしょうか。
この歴史の中で必ずや神の正義が貫いていき、人間の不正義が正されていくのだというエレミヤの信仰では
なかったでしょうか。
・私たちも信仰を通してこの世と他者である隣人と関わるときに、預言者としてエレミヤが経験した危機、
相反する価値観の人々からの圧迫や否定に遭遇するのではないでしょうか。ある人は、「神という中間項を
入れるといつもそのような悲劇が起こる」と言っています。その悲劇を引き受けながら、主イエスを信じ、
従って、神の御心が現れ、私たち人間がその神の御心に従順であることが何よりも求められているのではな
いでしょうか。己の十字架を担って生きる信仰者が苦難と死を経験することによって、神の愛と真実が証言
されることを見失わずにありたいと願わずにはおれません。