なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(15)

   「平和がないのに」エレミヤ書6:9-15、2015年9月6日(日)船越教会礼拝説教


・私たちキリスト者は、この時代や社会の中で何の問題を感じることもなく、ただ埋没して無意識に生き

ることはできません。この世にあっては旅人、寄留者として、神の国の住民として召されている私たちは、

この世にあっては異質者として歩み続ける者です。

・8月30日の国会前の安保法案反対の抗議行動には、12万人強の人々が集まりました。この抗議行動に

集まった人々は、今の安倍政権の政治に不安を感じ、否を突き付けるために集まった人々です。このまま

何も言わず、行動もしないでいたら、とんでもない社会になってしまうのではないか、という不安が多く

の人々をこの行動に駆り立てたと思われます。憲法違反の集団的自衛権の行使容認が認められて、自衛隊

アメリカ軍と共に世界の各地で戦争に加担するようになったら、私たちが人殺しの戦争をして、他国の

人々を苦しめるだけでなく、日本の中でもテロによる爆破行動が行われるようになり、私たちもテロの対

象にならざるを得ない。子どもたちにそのような日本の社会を手渡してはならない。憲法9条に基づく、

他国を侵略する戦争を放棄し、この世界の中で武力によらない平和の構築をめざすことこそが、かつて天

皇制国家による侵略戦争によって沢山の人々を殺し、また戦災によって私たちの家族が沢山死んでいった

過去を償う私たちの進むべき道ではないか。そのような強い思いによって、多くの人々が国会前に押し寄

せたものと思われます。私もその一人として国会前に行きました。

・今のような状況は、安倍政権の暴走によって、多くの人々に危機感が広がっています。ですから、これ

だけの多くの人々、しかも労働組合による組織的な動員ではなく、個々人が自分の判断で国会前にやって

きているのです。人々が危機意識をもって、このように沢山の人々が抗議行動に集まるということは、東

京電力福島第一原発の事故後の反原発抗議行動からずっと続いています。危機意識が多くの人を支配して

いる証拠です。

・私たちキリスト者は、「天にまします我らの父よ、/ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。/み国を来

らせたまえ。/みこころの天になるごとく、/地にもなさせたまえ。」と、主の祈りで日々祈っている者

です。現在の私たちの危機意識は、多くの人の安倍政権の暴走に対する危機意識と共に、この主の祈りを

日々祈る者として、この主の祈りに反するこの時代や社会の現実に対する危機意識でもあります。

預言者エレミヤは、預言者としての召命を受け、神の言葉を託された者として、ユダの国の人々に語り

かけました。そのエレミヤが語った言葉は、イスラエル人の的外れな、「利をむさぼる」(6:13)生き方

に対する、神の審判の言葉、神の怒りの言葉でした。けれども、ユダの国の人々は、エレミヤの言葉に耳

を傾けませんでした。先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書6章9節には、神がエレミヤに語られた

言葉として、<「ぶどうの残りを摘むように、/イスラエルの残りの者を摘み取れ。・・・>と言われて

います

・これはどういうことかと言いますと、<葉かげに隠れて実がまだ残っていないかと、一本ずつ蔓を手に

とって確かめるぶどう摘みのように、「イスラエルの残り」を幾度となく探し求めるように>(ATD181頁)

ということです。神の言葉に耳を傾ける者は誰もいないと思える状況において、それでもどこかに神の言

葉に耳を傾ける人がいるかもしれないので、そのような「イスラエルの残りの者」を注意深く探し出せと

言うのです。これがエレミヤに与えられた神の命令でした。

・10節から11節の2行目まで、エレミヤの嘆きの言葉が記されています。<誰に向かって語り、警告すれば

/聞き入れるのだろうか。/見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。/見よ、主の言葉

が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。/主の怒りでわたしは満たされ/それに耐える

ことに疲れ果てた>と。<人間的に見れば、聞こえぬ耳に語るだけならまだしも、神のことばと語り手も

ろとも蔑む大勢の人々からの嘲笑(あざけり)を浴びて、己の努力が水泡に帰したことを感じ、失意の真っ

只中にあるエレミヤが、魂のみとり手としての活動を更に展開してゆく勇気を喪失してしまったとしても

理解して余りあることであります。それゆえ、神のこの命令は彼を救いようの無い混乱に陥れる結果にな

>りました。(ATD181頁)。

・このエレミヤの嘆きが語られた時のユダの国の状況は、<ヨシヤ王の宗教改革以後、アッシリア帝国

急速な衰退が始まり、改革運動と共に、ユダには強いナショナリズムの風潮が興ってきた(時期です)。

このことは宗教の復興運動としての改革と大イスラエルを復興するナショナリズムを結びつけ、改革の本

質的課題を見失わせる危険を伴っ」っていました。(木田)そのような状況の中で、神の言葉を語り続け

るエレミヤに耳を傾ける者がほとんどいないことに、エレミヤ疲れ果ててしまったというのです。エレミ

ヤの孤独を想像します。

・けれども、この預言者としてのエレミヤの孤独は、そもそも彼の召命の時にあらかじめ告げられていた

ことでした。神はエレミヤを神の言葉をもって<ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向か

わせる。/彼らは(その)あなたに戦いを挑>んでくると。しかし、<(彼らは)勝つことはできない。

/わたしがあなたと共にいて、救い出すと/主は言われる>(1:18,19)と、神はエレミヤに約束してい

たのです。召命の時に、そのように言われていたからと言って、実際にその厳しい現実に預言者としてぶ

つかった時に、エレミヤは嘆かざるを得ませんでした。エレミヤは一方的に神の側にだけ立っていたわけ

ではないからです。

・人間は自然のままで、神の言葉を聞き取ることはありません。また聞き取ろうともしません。そのよう

イスラエルの民の感覚の鈍さとは対蹠的なのが預言者であります。預言者こそ神の霊感による働きかけ

を、自分の身体の領域まで満たし、自分自身によっても止めることができないほどの力として感じるので

す。神の言葉は誰も繋ぎとめることはできません。イスラエルの民がどんなに蔑んでも、また預言者がど

んなに制止しようとしても、神の言葉を繋ぎとめることはできません。

・ですから、エレミヤは、彼を解放する神の言葉でありますが、同時に彼の重荷ともなる神の命令を聞き

取るのです。<エレミヤが預言者として歩まねばならない道。それは、神の強制と彼自身に具わった他者

への思いやりとの間の葛藤の中で、繊細な感受性の持ち主である彼を次から次に魂の苦悩に追いやる道で

した>。それでも、彼の体の隅々にまで満たす神の審判の言葉である神の怒りを、罪ある者にも罪のない

者にも、老若男女を問わずふり注げという神の命令に従わざるを得ないエレミヤでした。11節の3行目か

ら12節にかけて、<「・・・それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。/男も女も、長老も年寄

りも必ず捕えられる。/家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。/この国に住む者に対して/わたしが手を

伸ばすからだ」と主は言われうる>と記されている通りです。

・ここで語られている神の審判は戦争による災禍という形をとると考えられています。当時は妻も財産と

考えられていて、妻たちは奴隷として売られてゆくであろうと言うのです。

・神の審判がイスラエルの民の財産にまで及ぶのは、彼らが所有欲に憑(と)りつかれていると共に、イス

ラエルの民の宗教的な指導者たちでさえ、安易には語り得ないはずの偽りの救済を、安易に語って、内的

にも外的にも深刻な状況から人々の眼をそらせているからだというのです。<身分の低い者から高い者に

至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療

して/平和がないのに、「平和、平和」と言う。>(13,14節)と。

・このところをある人はこのように言っています。<鎮痛剤では疾患は癒されない。疾患はただ真理によ

ってのみ除去されるのだ。ところが民は、逆に、良心を喪失し、神のことばよりも民衆の評判をおそれる

がゆえに、彼らに口先でへつらいを語る預言者たちの救済の約束に惑わされ、一層頑なになりさがる。そ

してついに彼らは、彼らの生活の指針なる羞らいの心の最後の働きまで喪失し、それゆえ神の真実がこの

ように広範な罰としての審判において恐るべき現実となるに及んで、彼らは当然として滅亡していかなけ

ればならないのである>と。

・エレミヤが預言者としてイスラエルの民の只中で神の言葉を取り次げば取り次ぐほど、孤独になり、<

主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた>(11節)と嘆かざるを得ませんでした。

この預言者エレミヤの孤独と嘆きは、弟子たちにかく祈れと教えた主の祈りを、文字通りイエスの時代の

ユダヤの中で生き抜いたイエスにもあったのはないでしょうか。私たちは福音書のイエスの受難の物語の

中で、十字架に架けられたイエスが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫

ばれたことを知っています。このイエスの叫びには、エレミヤの孤独と嘆きに通じるものがあるように

思えてなりません。

・利をむさぼり、神の真実を拒絶する人間の的外れから自由な人は、誰もいないでしょう。エレミヤは神

の審きの言葉、怒りの言葉を取り次ぐことによって、この神の言葉の前に人が自らの死を経験することを

求めたのではないでしょうか。自分に死んで、神から生きる。そのことです。しかしそれは至難のことで

す。

・かつての天皇制国家の侵略戦争による敗戦によって、私たちは、ある意味で死んで生きる、戦後の憲法

第9条に基づく道に導かれたとも言えるのではないでしょうか。戦後70年、既にその死を経験した人が少数

になっている現在の私たちの社会の中で、利をむさぼる生き方ではなく、神の真実にふさわしい人間とし

ての応答をもって生きる私たちでありたいと願わずにはおれません。