なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(3)

     「告発」エレミヤ書2:1-9、2015年3月22日(日)礼拝説教

・昨日川崎教会で神奈川教区社会委員会の平和フェスタがありました。この平和フェスタは毎年開催されて

いて、今年が12回目になります。平和フェスタが開催されるようになりましたのは、教区にある社会的な

問題を担っている委員会が、お互いの活動を知り合うことと、神奈川教区の教会の方々にその活動を知って

もらい、新しい方々に関心を持ってもらうという、二つの目的で行うようになりました。委員会は九つあり

ます。部落差別問題小委員会、核問題小委員会、ヤスクニ・天皇制問題小委員会、社会福祉小委員会、基地

自衛隊問題小委員会、多民族共生を目指す小委員会、寿地区活動委員会、沖縄交流委員会、国家秘密法反

対特設委員会、性差別問題特別委員会です。それぞれの委員会がブースを出して委員会活動の紹介をしてい

ます。それに今日の船越通信にも書いておきましたが、それぞれの委員会や会場教会によって食べ物が準備

され、参加者がそれを購入し昼食とします。その収益金はいろいろな働きのカンパに当てられます。今年の

平和フェスタのテーマは「ヘイトスピーチに抗して」で、メインの講演会もジャーナリストの安田浩一さん

ヘイトスピーチについてでしたので、朝鮮学校や今年も5月の連休に開催されます福島の家族の保養プロ

グラム、リフレッシュ@かながわなどに捧げられました。

・さてジャーナリストの安田浩一さんの講演を聞いて、ヘイトスピーチがいかに外国人差別、特に在日コリ

アンに対する深刻な差別であるかということを、改めて強く思わされました。安田さんはジャーナリストと

して大阪でのヘイトスピーチをしている在特会ののグループのデモについて行って取材したときに、在日韓

国人の女性ジャーナリストの方も一緒に取材したいと言われて、心配だったが自分の体でうしろの彼女を隠

すようにして取材を行ったそうです。彼女もデモのグループに顔を知られている人だったので、見つかった

ら大変だと思いながら取材を続けた後、幸い見つからずに取材を終えたることができたそうです。そして取

材を終えた時に、安田さんは彼女に「よかったね」と言ったそうです。すると、ヘイトスピーチの「朝鮮人

は死ねー」とか「日本から出て行け」とか「レイプするぞうー」という言葉が、安田さんと取材していた在

日韓国人の女性ジャーナリストの方に突き刺さって、彼女は痛めつけられていたので、安田さんから取材を

無事に終わって「良かったね」と言われて、厳しい顔をしていた彼女は切れて、「何が良かったのよ」と安

田さんに食って掛かったというのです。安田さんはその体験をして、より深くヘイトスピーチの差別性、そ

の犯罪性に気づかされたと話していました。

・フクシマや沖縄のこともそうですが、他者を痛めつけることに疑問さえも持たなくなってしまった時に、

私達は人間が壊れているのではないでしょうか。そういう状況が今、日本だけでなく、世界大に広がってい

るように思えてなりません。

・私はエレミヤが直面した状況も、ある意味では、今私たちが直面している人間が壊れかかっている状況と

同じだったのではないかと思えてなりません。そういう状況にあるイスラエルの同胞の現実に直面していた

エレミヤは、若者ではありましたが、預言者として召命を受けて神の言葉を語っていったのではないかと思

うのであります。先ほど読んでいただいたエレミヤ書の箇所は、エレミヤの最初の預言が語られている所で

す。2章1節から4章4節までが一つのまとまりになっていて、基本的には長い北イスラエルに対する悔い

改めの呼びかけであります。しかし、2章1-3節の導入と、4章3-4節の結びが加えられることによって、

全体はエレミヤが主として預言活動をした相手である、ユダとエルサレムの人々にも語られた形になってい

ます。

・2節後半から3節にかけてこのように言われています。「わたしは、あなたの若いときの真心/花嫁のとき

の愛/種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。/イスラエルは主にささげられたもの/収穫の初穂であ

った。/それを食べる者はみな罰せられ/災いを被った、と主は言われる」。ここでは、神はイスラエルに向

かって、《あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛》と言って、イスラエルに呼びかけています。このこと

は、エレミヤの悔い改めを呼びかける言葉が、全体として神を夫とし、イスラエルを妻とする比喩の下に展開

されていることを示しています。そしてこの2節後半から3節にかけての言葉は、夫としての神と、花嫁とし

てのイスラエルの蜜月のときが想い起されています。それはイスラエルの民の神ヤハウェに対する従順であり

ました。イスラエルの理想のときは、カナンに入る前の荒れ野時代であったというのです。沃地に入ると、イ

スラエルはバアルに誘惑され、バアルと姦淫しました。それが、イスラエルが滅んだ理由であります。荒れ野

は蜜月の時代であり、植物にたとえれば、イスラエルは神が蒔いた収穫の初穂であったのであり、主なる神以

外の何物もこれに手を触れることは許されなかったのです。

・このような夫である神と、花嫁であるイスラエルの蜜月時代、つまりモーセによってエジプトの奴隷状態か

ら解放されたイスラエルの民は、シナイ山で神と契約を結び、新たな出発をします。彼ら・彼女らを奴隷状態

から解放してくださった神をただ一人の神として崇め、大切にして、お互いが他者である隣人の命と生活を奪

わない、つまり大切にして共に生きてゆくために、イスラエルの民には十の戒め(十戒)が与えられます。神

への愛と隣人への愛に基づく共同生活を、そのような神との契約の民として、エジプトを脱出したイスラエル

の民は荒れ野時代を生きて行ったのです。そのような契約の民として、荒れ野から沃地カナンに導かれ、カナ

ンにおいても契約の民として共に生きて行くことを、イスラエルは期待されたのです。ところが、沃地カナン

に定着するようになったイスラエルの民は、荒れ野時代には味わうことのなかった豊かさ、豊穣の神農耕神バ

アルの誘惑に負けて、神との契約を破って、富と権力による支配によって人間の分断を許す周辺のエジプトや

メソポタミアのような国になってしまいます。契約共同体としてのイスラエルは陰に追いやられ、ダビデ・ソ

ロモンの王国、そして南北に分裂した北王国イスラエルと南王国ユダとなり、北王国イスラエルアッシリア

に滅ぼされ、残ったユダもアッシリアの圧政を受け、ついにはアッシリアに代わって覇権を手に入れた新バビ

ロン帝国によって滅ぼされてしまうのです。

・5節、6節にこう言われています。「主はこう言われる。/お前たちの先祖は/わたしにどんなおちどがあっ

たので/遠く離れて行ったのか。/彼らは空しいものの後を追い/空しいものとなってしまった。/彼らは尋

ねもしなかった。/「主はどこにおられるのか/わたしたちをエジプトの地から上らせ/あの荒野、荒涼とし

た、穴だらけの地/乾ききった、暗黒の地/だれひとりそこを通らず/人の住まない地に導かれた方は」と。

荒れ野から沃地カナンに導かれた出エジプトの民は、荒れ野からすれば圧倒的に豊かな豊穣神バアルが支配す

るカナンで、エジプトから解放してくださった神から遠のき、バアルに仕えるようになっていまいました。「

彼らは空しいものの後を追い、空しいものになってしまった」。そして神を呼び求めることもなくなってしま

ったと言うのです。

・今年は戦後70年です。敗戦直後の焼け跡時代にあった、生き残った者たちが、貧しかったけれども一生懸

命生きたそのエネルギー、少ない物資をお互いに奪い合う反面お互いの助け合いも豊かだったと思います。あ

の焼跡時代からしばらくの戦後の時代にはああった大切なものが、今は失われてしまっているということが、

私たちの中にも沢山あるのではないでしょうか。大震災を経験した直後は、みんな一緒だから助け合って生き

延びた人々が、復旧が進み、震災以前のような状態に戻ると、震災直後の人間同士の絆が失われてしまう。こ

れもまた、私達が経験していることです。

・豊かさの誘惑の中で人間が崩れ、壊れていく。これはいつの時代、どの社会でも普遍的な事なのかもしれま

せん。7節、8節にはこのように言われています。「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き/味の良い果

実を食べさせた。/ところが、お前たちはわたしの土地に入ると/そこを汚し/わたしが与えた土地を忌まわ

しいものに変えた。/祭司たちも尋ねなかった。/「主はどこにおられるのか」と。/律法を教える人たちは

わたしを理解せず/指導者たちはわたしに背き/預言者たちはバアルによって預言し/助けにならぬものの後

を追った」と。

・私達もまたこの地球という自然を、また与えられた大地を、海を、空を汚し続けてきたのではないでしょう

か。「お前たちはわたしの土地に入ると、そこを汚し、わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた」と、

そのように言われている私達ではないでしょうか。祭司=宗教家も、律法を教える人たち=教育家も、指導者

たち=政治家も、預言者たち=思想家たちも、「助けにならぬものの後を追ってきた」のではないでしょうか。

・ エレミヤの預言は、直接的には、紀元前620年代にユダとエルサレムの人々に向けて語られたもの

ですが、現代の私たちに向けられたものとして読めるのであります。一人の神に命与えられた被造者として、

幼子のように神を信じて生きることから離れて、豊穣の神々に、富と権力に仕える者になっていくときに、

正にエレミヤが悔い改めを迫ったユダとエルサレムの人々と私たちは全く同じ人間になっているのではない

でしょうか。

・今日のエレミヤ書の最後の所には、9節「それゆえ、わたしはお前たちを/改めて告発し/また、お前たち

の子孫と争うと/主は言われる」とあります。エレミヤは、主なる神から遠く離れてしまったイスラエルの民

に向かって、改めて告発し、その子孫と争うと言うのです。ここで「告白」「争う」と訳されている言葉はヘ

ブル語のリーブという動詞で、《これは、「法廷で論争する」の意味で、広い意味で法的な決着をつけるため

の言論を意味する》と言われています。つまり神の方からイスラエルの民を法廷に引き出して論争するという

のです。エレミヤにとっての神は、傍観者ではありません。法廷で論争を挑む、不信のイスラエルをそのまま

放置する方ではなく、バアルに仕えるイスラエルを許さない、イスラエルを執拗に追い求めるねたむ神です。

・私達が人間を踏み外してしまわないためには、私達を本当に大切にしていてくれる存在との関係にあること

が欠かせないのではないでしょうか。そのような方とのかかわりの中で、たとえ一度道を踏み外してしまった

としても、再び人間として回復することができるのです。エレミヤにとって、神とはそのような方でした。

・現代においてもそのことは全く変わらないのではないでしょうか。私たちを告発し、法廷で論争する神の存

在を思い起こし、イエスと共に、また他者と共に生きる者でありたいと願います。