今船越教会の礼拝説教でエレミヤ書を扱っていますが、約45年前の私が神学校を出て最初に赴任した
足立梅田教会の月報に書いたのが、下記のものです。
聖研:「エレミヤの信仰」その1 (足立梅田教会月報1971年6月号より)
はじめに
この聖研は日曜日夜の聖研でやっているものを元にし、預言者エレミヤが神とイスラエルの民の間に立
ってどのような信仰の戦いをたたかったかに焦点をしぼってまとめたものです。これに置いている私の意
図は、エレミヤの信仰を学ぶことから、わたしたちの信仰を反省しかつ正すことにあります。エレミヤは
ユダヤの国家滅亡という厳しい歴史的現実とまともに対決し、神に従った人です。わたしたちもまた、現
代といういろいろな意味でやはり厳しい歴史的現実と対決しつつ神に従うことが、求められているのでは
ないでしょうか。
預言者とは
イスラエルの預言者を意味する原語はいろいろありますが、一般的な言葉はナービーです。その意味は、
「呼ばれた者」「召された者」だと言われています。オールブライトという旧約学者は「預言者とは或る
特別な使命のために神に召されたと感じた者であって、そのために彼の意志は神の意志に従い、その使命
は直接的な霊感によって彼に伝えられたものであった」と言っています。すなわち、預言者とは、「神に
呼ばれた者」「神に召された者」なのです。
また、イスラエルの預言者を正しく理解するためには、旧約宗教の根本的前提である神とイスラエルと
の契約関係を無視することはできません。預言者はこの契約関係において神の代弁者の役割を演じたので
あります。すなわち、イスラエルの預言者の第一の働きは、神がその意志を知らせたもうその媒介となる
ことでありました。
まことに主なる神は、
そのしもべである預言者にその隠れた事を
示さないでは、何事もなされない。
ししがほえる、
だれが恐れないでいられよう。
主なる神が語られる、
だれが予言しないでいられよう。
(アモス3:7,8)
そのことによって、預言者はイスラエルの民に、彼らが相手にしなければならない神がどのような存在で
あるかを思い起こさせ、彼らが神に対して特別な関係にあること、そしてそこには種々の義務が生じてくる
ことを思い起こさせたのであります。
わたしたちは、預言者の中でこのような神の代弁者たることと弱さをもったひとりの人間とがどのように
からみ合っていたのか、を知りたいと思います。何故なら、わたしたちが一個の信仰者として神に従おうと
するとき、いつも神の召命と自分の中にある人間的弱さとにはさまれて悩んでいるからです。エレミヤは他
の預言者たちよりもこのような苦悩を強く経験した預言者です。ですから、この点においても、わたしたち
はエレミヤから多く学ぶことができると思います。
預言者が代弁した神のことばは預言者たちにはどのように考えられていたのでしょうか。
天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
地を潤して物を生えさせ、芽を出させ、
種まく者に種を与え
食べる者にかてを与える。
このように、わが口から出る言葉も、
むなしくわたしに帰らない。
わたしの喜ぶところのことをなし
わたしが命じ送ったことを果す。
(イザヤ書55:10,11)
この聖句に示されているように、預言者を通して語られた神のことばは、神がイスラエルに対してしよ
うとされる次の行動を単に宣告するだけでなく、実際に成就するものと考えられたのであります。預言者
は神こそが歴史の真の支配者であること、従って神の意志によらないでは何事も起こらないことを確信し
ていました。ですから、どんなに彼らの置かれた歴史的現実が彼らの意図にそわなかったとしても、そこ
から逃げ出さずに、そこで神に聴従していったのであります。