「平和に暮らす」出エジプト記22:20-26,ローマの信徒への手紙12:9-21
2015年8月2日(日)平和聖日船越教会説教
・今日は8月の第一日曜日の礼拝です。8月の第一日曜日は、日本基督教団では、ヒロシマ・ナガサキ
のことを振り返り、私たちの教会が平和を創り出す者となることを願って、「平和聖日」と定めている
日です。そこで今日は、聖書日課によって、この日のテキストとさせえもらいました。ローマの信徒へ
の手紙12章9節から21節が、今日の平和聖日の箇所の一つですので、この箇所を選ばせてもらいました。
・本田哲郎さんが翻訳した「ローマの人々への手紙」には、新共同訳聖書と同じように小見出しがつい
ています。ギリシャ語原典の新約聖書には小見出しはありませんが、新共同訳聖書も本田哲郎さんも小
見出しをつけて、読み手が読みやすくなるように気を使っているのだと思います。新共同訳聖書は小見
出しだけですが、本田哲郎さんの訳には、小さな部分につけられた小見出しだけではなく、さらに大き
な部分にも大見出しというか、表題がつけられています。
・今日のローマの信徒への手紙の箇所には、本多さんの小見出しは、「『礼拝』となる日々の行動の原
則―底辺の仲間との連帯」となっています。そしてこの部分が含まれている12章1節から14章12節まで
の大きな区切りには、大見出しとして「日々の生活の原則」と記されています。今日の箇所の前の部分
、12章1節から8節までの本田訳の小見出しは、「一人ひとりのカリスマを活かした、行動による『礼拝』
を」となっています。
・ローマの信徒への手紙は、1章から8章までに、イエス・キリストの福音についてパウロは記していま
す。そして9章から11章は、ユダヤ人問題について記るされていて、神の救済は、はじめユダヤ人に与え
られたが、ユダヤ人が頑ななためにユダヤ人から非ユダヤ(異邦人)に移り、非ユダヤ人(異邦人)が
救済されたら、再びユダヤ人に向けられて、ユダヤ人も救済されて、神の救いのみ業が完成するという
ように記されているのであります。そのようなローマの信徒への手紙1章から11章の後に、パウロは12
章からイエス・キリストの福音によって解放された者が、ではこの世での日常をどのように生きていく
のかということについて、パウロの考えが述べられているのであります。
・12章1節に、<こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に
喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です>(新共同
訳聖書)と記されています。本田さんの訳では、<仲間のみなさん、あなたたちにお願いします。神は思
いやりに満ちた方ですから、あなたたちは自分の体を、神に喜ばれる聖なるいけにえとして、互いに差し
出すようにしてください。これがあなたがたのなすべき礼拝です>となっています。「あなたがたのなす
べき礼拝」、すなわち「私たちがなすべき礼拝」は何かと言うと、パウロはここで、「私たちの体を、神
の喜ばれる聖なるいけにえとして、互いに差し出すこと」が、「私たちのなすべき礼拝」だと言うのです。
これはどういうことかと言いますと、本田哲郎さんが12章1節から8節までの小見出しで記している「一人
ひとりのカリスマを活かした、行動による『礼拝』」ということではないかと思うのです。
・ですから、<あなたがたはこの世の生き方に合わせてはなりません。むしろ、判断の視座を新たにして
自分が変えられ、その上で、神のみ心が何であるか、何が人に親身なことで、神に喜ばれ、また完全なこ
とであるのかを、見きわめるようにしてください>(12:2、本田訳)と言われているのです。パウロの理
解によれば、礼拝は日曜日の礼拝だけではなく、私たちの日常の生活そのものが礼拝であると言われてい
るのです。つまり「一人ひとりに与えられているカリスマ(賜物)を活かした行動による礼拝」です。そ
の上に立って、今日の箇所には、本多さんの小見出しによれば、「『礼拝』となる日々の行動の原則」が
書かれていて、それが「底辺の仲間との連帯」であるというのです。
・15節、16節には、このように言われています。<喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに
思いを一つにして、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分が賢いとうぬぼれてはなりません>
と新共同訳では訳されています。本田訳では、<喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい。思い
上がることなく、互に思いを一つにし、小さくされた仲間とあゆみをともにするのです。自己中心になっ
てはいけません>となっています。新共同訳では<身分の低い人々>と訳されていますが、本田訳では
<小さくされた仲間>と訳されています。<小さくされた仲間とあゆみをともにする>。自己中心にでは
なく、このように日々生きることが「『礼拝』となる日々の行動の原則」であるというのです。
・21節には、<悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい>(新共同訳)とあります。おそらくこ
の言葉がこの箇所の総括になるのではないかと思われます。しかし、新共同訳では大変抽象的です。悪と
は何か、善とはなにか。解釈次第ではいろいろに解釈できるからです。ところが、本田訳では、「悪」を
「不当な仕打ち」と訳し、「善」を「親身に関わること」と訳しています。<不当な仕打ちに打ち負かさ
れるままでいるのではなく、親身に関わることによって、不当な仕打ちに打ち勝ちなさい>と。<小さく
された仲間とあゆみをともにする>ということは、この世の現実においては常に<不当な仕打ちに打ち負
かされるままでいるのではなく、親身に関わることによって、不当な仕打ちに打ち勝つ>ことではないで
しょうか。
・一昨日、横須賀市民9条の会の主催で、「イラクで見つけた憲法九条」という題で、高遠菜穂子さんの
講演会があり、私も聞きにいきました。高遠さんはご存知だと思いますが、2004年に他の二人の方と共に
イラクのファルージアで、日本のサマアへの自衛隊派遣を問題にした現地武装集団に拘束され、解放され
て日本に帰って来た時に、何故危険な所に行ったのかということで、「自己責任」によるバッシングを受
けた人です。そのためにしばらくはPTSD(心的外傷後ストレス障害)で悩んだそうですが、その後もイラ
ク人道支援の働きを続けています。高遠さんのお話を聞いていて、アメリカが中心になって行ったテロと
の戦いとうたわれたイラク戦争によって、イラクの民衆、特に家族を失った子供たち、夫を失った女性
とその子どもたちが、どんなに悲惨な状況に置かれているかを改めて知らされましたが、高遠さんはその
現実を知って、自分のできるイラク人道支援の活動をずっと続けているのであります。イラク西部のラマ
ディの人で、そのラマディは最激戦地になったところだそうですが、カーシムというイラク人は、かつ
て兵士でありましたが、ある時期からずっと人道支援活動をしているそうです。その彼が出した結論は、
「軍は国民を守れない。イラクもアメリカも人々は傷ついているだけだ。戦場に勝者はいない。銃を持
った手で人の命は救えない」ということだと、高遠さんは言っています(『破壊と希望のイラク』29頁)。
・高遠さんは、イラクの人は日本がヒロシマ、ナガサキを経験して、平和国家として経済発展をしてき
たことを大変好意的に受け止めていて、親日家の人が多かったが、<2004年の陸自イラク派遣を機に、
日本に対するイメージは「平和国家」より「米追随の軍事国家」の方が強くなってしまいました>と言
っています(同29頁)。私たち日本人は15年戦争・太平洋戦争を経験して、イラク人カーシムと全く同
じように、二度と戦争をしてはならない。「銃を持った手で人の命は救えない」ということを、心底か
ら知らされたのではなかったでしょうか。ところが、戦後繰り返された戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争
による特需により経済成長を遂げることによって、日本の国家は、アメリカが仕掛けた湾岸戦争、アフ
ガニスタン、イラク戦争に加担するようになり、あの15年戦争・太平洋戦争によって私たち自身が経験
した戦争による犠牲者の悲惨な状況が、戦争が行われている他国で起こっているということへの想像力
が、私たちの中にも徐々に失われてしまっていたのではないでしょうか。
・安倍政権による集団的自衛権の行使という憲法違反の戦争法案が国会に提出されて、米軍と共に自衛
隊が海外で戦争する国になってしまうという危機感から、現在多くの人々が、「戦場に勝者はいない。
銃を持った手で人の命は救えない」ことに目覚めて、戦争法案反対の運動が広がっているのではないか
と思います。そのこと自身は喜ばしいこととして受けいれなければならないと思いますが、「小さくさ
れた仲間とあゆみをともにする」礼拝者としては、更にその先のことまでもよく考えて行動していかな
ければならないと思うのであります。その先のこととは、国家によらない人と人のつながりにおいて、
憲法第9条により、軍事力によらない「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」ていくこと
です。
・今日は平和聖日ですので、「小さくされた仲間とあゆみをともにする」礼拝者として、「平和を創り
出す」とは、どういうことなのかについて考えてみたいと思います。私は聖書、特にイエスの生き様か
らすれば、軍事力によらない平和の構築が求められていると思います。その意味では国家は、憲法9条に
もとづく外交努力にかけるべきだと思っています。そういう私の考えに対して、キリスト者の中にも、
安全保障の問題を突き付けてきて、あなたの考えは絶対平和主義だが、現実の国民国家によって分断し
ているこの世界の状況からすれば、それは机上の空論だ。米軍と自衛隊の存在は抑止力になっているで
はないかというのです。それに対して、心の中では思うところがありましたが、昨日の教区の秘密保護
法反対特別委員会の講演会に行って、講師とのやり取りをして、はっきりと確信できるようになりまし
た。それは国家を前提に考えないで、他国に侵略されても、かつての植民地支配下のアフリカの国々の
人々の場合のように、また沖縄の人々のように、「小さくされた仲間とあゆみを共にする」ことよる希
望があるということです。講師の小倉利丸さんは、現在の戦争法案反対の運動を担う人々の中に、そこ
まで考えている人がどこまでいるかを問題にしていました。イエスに倣ってこの時代を生きる者は、そ
こまで考えながら、「小さくされた仲間とあゆみをともにする」礼拝者として、今この時代を生き抜い
ていきたいと思うものです。