なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

赤岩栄「除名についての私の弁明」

私の戒規免職と同じような問題が、教団においてかつて赤岩栄除名問題という形でありましたが、赤岩栄は

実際には除名にはなりませんでした。当時の教団執行部は何度か赤岩栄のところへ出かけて話し合ったと

いうことを聞いたことがあります。下記の文章は、赤岩除名問題が起こったときに、赤岩栄が『指』に書い

た文章です。これは、私を免職処分にした現教団執行部に向けての、今でも通じるまともな論調ではないかと

思います。


       「除名についての私の弁明」  赤岩栄   『指』 1966年4月号より

 教団内部で、この頃私の除名が問題になっているらしい。先日、キリスト教新聞の記者が来て除名になった

らどうするのかと質問された。私はその時、抗告して問題を公にすると答えたのだが、この公という意味は、

こっそり処分されるようなやりかたではなく、教団全体の問題としてもらうというつもりであった。ところが

記者は、抗告を広告ととって、広告を出して世に問うと私が言ったように新聞に出してしまったのである。さ

っそく抗議の葉書をよこす人があって、こちらは迷惑している。こうした問題は、できる限り冷静に対処した

いものである。

 人はよく私に質問して、教団に残ることに何か得なことでもあるのかと問われる。しかし、むろん、それは

損得の問題ではない。この広い世間には損得以外で動く人間も少しはいてもよいし、私はそういう人間のひと

りでありたいと思っているのである。

 私は教団の信仰告白や、規律に反したことを語ったり、行ったりしているから除名しなければならないとい

うのが、一部の除名論者の言い分らしい。教団が政党であるなら、この考えは当然だと思う。しかし、教団は

政党ではないのだから、そうした規則以前に、イエスにある交わりが前提となるほかない。このような前提を

無視して、規則だけで処理することは教団を政党の場に堕することである。この点で私は除名論者の態度が納

得できない。彼らは自分こそ教団であると自負しているのであろうかが、教団政治の外にある私も教団に属し

ている。それも、教団の規則や、信仰告白が先であって、それを選ぶことで、私は教団の一員になったのでは

ない。むろん、そのような仕方で教団の一員になったのであるなら、当然、信条や規則に反する私は言われな

くとも、自ら教団を出るべきだろう。ところが、戦時中、諸教派が合一したので、一教派に属する私も、自ら

の教団に属する者となったということは、教団の規則、信条、以前の問題なのである。それは信条や、規則で

第二次的に成立した組織ではなく、イエスにある交わりであって、この根拠を無視するなら、教団は単なる政

治団体のようなものとなってしまう。除名論者の動きは、私から見ると、何か政党の懲罰委員のように見える。

もし、教団の成立条件が基本的にはイエスにある交わりにあるなら、信条や規則を押しつける前に、それの正

当性を私に納得させるよう、なぜ努力しないのか。私の『キリスト教脱出記』が、信条の限界を越えていると

の判断が、私の除名の理由であるということを私はきいている。むろん、私は『キリスト教脱出記』が無謬の

ものだなどとは考えていない。しかし、同時に、教団の信仰告白も、教団員を拘束するものとは受けとってい

ないし、ブルトマン以来の今日ではいささかアナクロニズムであると思われるのである。

 したがって、イエスにあるものという前提のもとに、一方的に自分の考えを押しつけるのでなく、互に話し

合う必要があるのではないか。私が『キリスト教脱出記』を書いたのは、福音書の様式史的研究、編集史的

研究の結果、在来、私の抱いていた信仰が神話にもとづく迷信であったということを知らされたので、私は

それに対して責任を感じ、その過程を明らかにしたのである。この点に関して、そういう誤りを犯した以上、

以後沈黙すべきだという意見を私は聞いている。しかし、この試行錯誤は、私にとってイエス追求という過

程の一道標なのであって、イエス追求の結果が私の『キリスト教脱出記』となったのであって、この点に関

しては、節操をうんぬんされるいわれはないと思っている。もし、私がこのイエスの線を外してしまうなら、

私は当然、自から教団脱退を申しでるべきであろう。しかし、教団はイエスにあるということを根拠にすべ

きであって、信条や規則を第一義とすべきでないと考える。もし、教団の一部の人の主張のように、信条や

規則をかざして、自分の意に反するものをひき抜いていくなら、教団はその根拠をあやうくするだろう。そ

れは、福音書の譬にあるように、毒麦を抜こうとして、よい麦を抜いてしまう結果になる。古い信条が無効

になろうとしている現代においては、マルコ福音書の編集時点に立って、ヨハネに語ったイエスの言葉を思

い起こしたい。ヨハネがイエスに「先生わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出

しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」といった時「や

めさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、そのすぐあとで、わたしをそしること

はできない。わたしに反対しない者は、わたしの味方なのである」イエスはこのように答えられた(9:38-40)。

むろん、この言葉は編集史的理解によればイエスの言葉そのものではなく、当時の教条化されていくエルサ

レム教会へのマルコのせい限りの批判、警告なのである。おそらくイエスもまたこのマルコの気持に同意さ

れたにちがいない。今日の教団は、イエスという広い地盤にとどまり、あらゆる立場から、活潑に論議し合

ことで、現代にふさわしい教団になることができるであろう。私が教団にとどまる理由はこのようなきっか

けをつくりだしたいたけである。

 それから教団負担金の問題だが、合同しない前の私の教派は、外国の援助を受けていないで自立する立場

をとっていた。私たちの教会は教派からも、教団からも一度も金銭上の援助をうけたことはない。しかし、

教団が外国からの援助金を受けなくなれば、私たちの教会はその日から教団の負担金を支払うつもりでいる。

それは教団に属する者の当然の義務である。私の教会が今、それを納めないのは、外国の援助を受けること

に対する抗議なのであって、教団が外国の援助をことわれば、負担金を納めないという非常手段は、即刻、

とりやめるつもりでいる。何よりもまずそれぞれが、それぞれの立場を、真身になって理解する必要があろ

う。すぐ、だんびらを抜いて除名、除名と騒ぐ前に、もっとしなければならないことがるのではないか。

 今、教団の一部がしていることは、教会が制度化される以前の大切な毛根と、現代に目覚めた新しい緑の

芽を切ってしまうことのように見えるので私は教団という樹のために、このような愚かな真似はしないでほ

しいと願っているのである。教団の一部の人たちにとって除名対象となる人々は、ただ私だけではなく、教

団という樹の毛根や、芽にあたる大切な人たちでもあるのだということを理解してほしい。

 つるひげは金山の露うごきたり