「役立たない帯のように」エレミヤ書13:1-11、2016年4月3日船越教会礼拝説教
・今日の説教題は「役立たない帯のように」としました。この題から皆さんは何を思われたのかは分かりま
せんが、帯が帯としての役割を果たせなくなるほどにボロボロになってしまったら、その帯は全く使い物に
ならないのであります。
・先程司会者に読んでいただきましたエレミヤ書13章の1~11節の箇所の前半には、預言者エレミヤによる象
徴行為が記されています。そこに「麻の帯」のことが記されているのであります。先程司会者に読んでいた
だいた通りであります。そのところをもう一度思い出してみたいと思います。
・<主はわたしのこう言われる。「麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない。わたしは主
の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた。主の言葉が再びわたしに臨んだ。「あなたが買って腰に締めたあ
の帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい」。そこで、わたしは主が
命じられたように、ユーフラテスに行き、帯を隠した。多くの月日がたった後、主はわたしに言われた。
「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい」。わたしはユー
フラテスに行き、帯を探し出した。見よ、帯は腐り、全く役に立たなくなっていた>(エレミヤ13:1-7)。
・これはエレミヤが神によって命じられた預言者の象徴行為と言えますが、実際にエレミヤがこの預言者の
象徴行為をしたとは、エレミヤが活動していたユダの国からユーフラテスまでの距離が遠く、二回も往復し
たとは考えにくく、これは後の時代の捕囚期の人々が、エレミヤにまつわる物語として伝えられていたもの
ではないかと言う人もいます。エレミヤが実際にこの象徴行為をおこなったのかどうかはともかくとして、
この象徴行為が意味することは、今日のエレミヤ書の箇所の後半(8-11節)から明らかです。
・麻の帯は、ユダとエルサレムを象徴しています。そのユダとエルサレムを象徴する麻の帯を、神自身がそ
の腰に名声と栄誉と威光を示すために着けておかれたのであります。しかし、その帯は神の腰からはずされ
て、長らく放置されました。再び取り出してみますと、最早全く役立たないものになっていたというのです。
ユダとエルサレムは長らく、神の意志である律法を離れて歩んだので、もはや神の名声や威光を示す役割を
果たすことができなくなり、ユーフラテスの彼方バビロンに捕囚として移されたというのであります。
・ですから、このエレミヤの預言は、ユダとエルサレムがバビロンによって滅ぼされ、バビロンに連れてい
かれた捕囚の民の中で、エレミヤの預言を継承して、ユダの滅亡の意味を考えていた人々の手になるエレミ
ヤ物語であり、それについての預言であるというのです。もしそうだとするならば、いわば国家滅亡と支配
国であるバビロニアへの捕囚という、命だけがかろうじて助かり、すべてのものを失ったユダの捕囚の民の
中に、その状況の中で自らのイスラエルの民としてのアイデンティティーについて、イスラエルの民は何者
なのかについて、思いめぐらす人々がいたということを意味します。
・しかも、彼ら・彼女らを選んで神と契約を結んだ民としてこの世俗社会の中で生きるように導いた神ヤハ
ウエを想い起し、その神ヤハウエとの関わりにおける自らのイスラエルの民としてのアイデンティティー、
自分たちは何者なのかを問うているのです。このこと自身すごいことではないでしょうか。国の滅亡と捕囚
という破局的な状況の中で、神の前に自らのあり様を問うているのですから。
・私たちイエスを信じる信仰を与えられて、その教会の群れに加えられた者にも、自分たちは何者なのかと
いうアイデンティティーが明確にあります。パウロは教会の群れを「キリストのからだ」と言って、一人ひ
とりの信仰者はそのからだの肢体だと言いました。しかもそのキリストの体としての教会の群れは、その群
れの中にいる最も弱い人々を中心にして支え合い、助け合い、励まし合っていく共同体であるというのです。
当然そのような私たちもこの世俗社会の中で、それにふさわしく生きているかどうかが問われます。
・ご存知のように戦時下に国家の圧力によって生まれた私たちの日本基督教団という教会は、戦争協力と言
う過ちを犯しました。そのことを反省して自らの過ちを告白して、自らのアイデンティティーを再確認して
やりなおしていこうとしたのは、1967年のイースターに当時の日本基督教団議長の鈴木正久の名前で公にさ
れたいわゆる戦責告白(第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白)です。戦後22年が
経って、この戦責告白が出たのです。今日は、みなさんのお手元に週報と共に戦責告白本文が配られている
と思いますので、それを御覧ください。短い文章ですので、読んでみたいと思います。
・<わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわ
たくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及
び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。/まさにこのときにおいて
こそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改
めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。/わが国の政府は、そのころ戦争
遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。/明治初年の宣教開
始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立し
たく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、こ
こに教団が成立いたしました。/わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあ
やまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するも
のであります。/「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに
国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありま
した。/しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り
努めることを、内外にむかって声明いたしました。/まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わた
くしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしま
した。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、
そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。/終戦から20
年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮す
べき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまち
をくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを
祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであ
ります。/1967年3月26日 復活主日 日本基督教団総会議長 鈴木正久>
・この戦争責任告白の本文については、その言い回しや内容的に、沖縄について全く触れていないというこ
となど、問題を感じないわけではありませんが、少なくとも戦時下における日本基督教団という教会が犯し
た過ちを反省し、再び同じ過ちを犯してはならないという決意表明として、私たちはこの線に沿って信仰者
として歩んでいきたいと願っているのであります。特に安倍政権によって安保法制が成立、施行されている
現在にあって、私たちにとってこの戦争責任告白の重要性が際立ってきているように思います。
・けれども、イスラエルの民が神の意志である律法、かく生きよと呼び掛け、その道に従って生きるならば、
人々に祝福と幸いがあるという神の声を無視して、高慢になって自分だけで歩んでいくことによって、権力
と富や諸々の神々に支配されていったように、私たちも、今神はイエスにあって誰と共に歩んでおられるの
かを見失って、自分だけで歩んでいくとすれば、イスラエルの民と同じように、戦時下の教会と同じように
なっていくに違いありません。よく考えてみなければなりません。すべての人に命をお与えになってこの世
の生をいきることを許して下さった命の神は、人間がつくり出しているこの社会の現実を御覧になって、ど
のような人のことを心にかけて、寄り添おうとされるでしょうか。最も苦しんでいる人、人々の犠牲になっ
て命と生活を脅かされている人のことではないでしょうか。愛と真実と正義を大切にされる神であるとすれ
ば、「貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々」のことではないでしょうか。ですから、イエス
はこのように語られたのではないでしょうか。
・<「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。
あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれ
るとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをした
のである>(ルカ福音書6:20-23)と。このように語り、まさに「貧しい人々、今飢えている人々、今泣い
ている人々」と共に歩まれたイエスが、今この時代の私たちの社会の中にあって、誰と共にい給うかを見失
わずに、歩みたいと思います。