なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(42-2)

       「孤独」エレミヤ書16:1-13、2016年6月26日(日)船越教会礼拝説教

参議院選挙が始まりました。この選挙の結果参議院の議員数が自公で3分の2以上になりますと、安倍政権はい

よいよ憲法改定に動き出すものと思われます。みなさんは自民党憲法草案をお読みになったことがあるでしょ

うか。現在の憲法と比べてみますと、平和主義や基本的人権が脅かされて、国家主義的な色合いが強く、正に戦

争ができる国づくりをするものになっています。その意味で今回の参議院選挙は日本の国の今後の歩みを決定づ

けるようになるかも知れない、大変重要な選挙と言えます。

安倍晋三首相の中には日本の国のかつての戦争が誤りであったという事実を認めたくないという思いが強くあ

るように思われます。そのために戦後70年談話を出す時に、あの日本の戦争を侵略戦争と認めて謝罪を表明した

村山談話を否定する歴史認識によって、中国や韓国から猛烈な反発を受け、またアメリカなどからもその歴史認

識に対して批判がありました。そのために戦後70年談話では、形の上では村山談話を踏襲し、「敗戦」という言

葉も使っていますが、安倍晋三首相の中には敗戦の否認があるのではないかと思います。敗戦を認めることは、

日本の侵略戦争の誤りを認めることであり、それまでの日本の国のあり方に対して「否」を突き付けることであ

り、死を認めることでもあります。それを認めない限り、戦前の天皇制国家とは違う憲法9条による平和国家の

建設は困難です。戦後朝鮮戦争の勃発によって、アメリカは日本の国をアメリカの世界戦略の中に組み込み、あ

る意味で現在に至るまで米軍による日本の占領を続けています。戦後日本の政府や官僚はそのアメリカによる日

本の支配、アメリカの属国であることに甘んじて現在に至っております。その犠牲を最も強く受けているのが沖

縄です。日本で唯一悲惨な地上戦が行われ、また戦後日本から切り離されてアメリカの統治下に置かれ、強制的

に米軍基地が作られ、日本復帰後も日本の米軍基地の約74%が集中しているのが沖縄です。日本政府とアメリ

軍による犠牲を最も強く受けている沖縄の人々は、戦争の誤りを認め、それまでの国のあり方に死を突きつけ、

憲法第9条による平和国家の建設に立ち上がっているのです。

・それまでのあり方への死を認めるということは、聖書的に言えば、神の審きに従うということです。先ほど司

会者に読んでいただいた箇所で、エレミヤはエルサレムとユダの人々に対して神の審判を証しするように命じら

れています。エレミヤに命じられたことは、エレミヤが自分自身の身をもって証言する、一つの象徴行為ではな

いかと思われます。三つのことがエレミヤに命じられます。一つは、<あなたはこのところで妻をめとってはな

らない>(16:1)です。2番目は、<あなたは弔いの家に入るな。嘆くために行くな。悲しみを表わすな>

(16:5)です。3番目は、<あなたは酒宴の家に入るな。彼らと共に座って、飲み食いしてはならない>(16:8)

です。

・ここに記されています三つの事、結婚の断念、死者の為に悲しむことの禁止、宴席で皆と共に喜ぶことの禁止

は広い意味で預言者の象徴行為に属します。神の審きが近く、死者が悲しまれず、葬られず、喜びの声が一切絶

えはてるような時代が来ることをエレミヤはこれらの行為によって身をもって示すことを命じられたのです。結婚し

ない、ということは当時のイスラエルにおいては全く例外的なことでありました。古代社会においては、現代の

ように個人が一人で都会に出て働いて生計を立てるということはあり得ませんでした。ほとんどが親族社会の中

で生きることができたのでしょうから、ある年齢にきたら、ほとんどの人は結婚したのです。親の葬儀に列席せ

ず、祝いの席に臨まない、ということも伝統やしきたりの強制力が強かった古代の社会にあっては、社会全体か

ら排斥される結果を招いたに違いありません。この三つの禁止命令にエレミヤが従がったとすれば、イスラエル

人の社会から、一人の例外者として排斥され、エレミヤはその孤独に耐えなければなりませんでした。15章17節

に<わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独り座っていました>と語られて

いますが、この言葉にはエレミヤの孤独な姿がよく表現されています。<御手に捕らえられて>と言われていま

すから、エレミヤは預言者として神の御手に捕らえられた自らの存在を強く意識していたのです。神に従うエレ

ミヤは、同胞イスラエルの中で例外者にならざるを得ませんでした。みんなと一緒になることはできなかった

のです。ヴェスターマンは、この「エレミヤに課せられた神の使者としての運命は、ほとんど非人間的と言える

ほど、過酷に思える」と言っています。

・おそらく戦時下のキリスト者の中に、日本の侵略戦争は敗北すると予見し、そこに神の審きを見て、戦争協力

を拒絶した人がいたとするならば、その人は非国民と人々から罵られ、憲兵につきまとわれ、場合によっては獄

に捕らえられて拷問を受けたかも知れません。エレミヤと同じような孤独を味わわなければならなかったに違い

ありません。

・ところで、エレミヤが預言者として予感したイスラエル人への神の審きとはどのようなことだったのでしょう

か。16章5節後半にこのように言われています。<「・・・わたしはこの民から、わたしの与える平和も慈しみも

憐みも取り上げる」と主は言われる>と。選ばれた民からこれらのものが取り去られるとき、それは審きであり、

死そのものであります。死がイスラエルに臨んでいることを知る預言者には、人々の悲惨な死の有様がすでに眼

前に浮かんでいたのでしょう。またかかる死を知る者は通常人の悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶことは出来なかっ

たのです。<「身分の高い者も低い者もこの地で死に、彼らを葬る者はない。彼らのために嘆く者も、体に傷つ

ける者も、髪をそり落とす者もない(悲しみの表現)。死者を悼む人を力づけるために、パンを裂く者もなく、

死者の父や母を力づけるために、杯を与える者もいない>(16:6,7)と言うのです。また、このようにも言われて

いるのです。<万軍の主、イスラエルの神はこう言われる。「見よ、わたしはこのところから、お前たちの目の

前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる>(16:9)と。

・関根正雄さんは「結婚を断念すること、悲しむ者と共に悲しまず、喜ぶ者と共に喜ばないこと、そこには例外

者の倫理がある。かかる例外者の異常な生き方が示そうとする神の真理は無論限りなく深い。神の審きの前に人

は一度倒れなければ、真に正しく生きることは出来ないからである」と言っています。私たちは、唯一人のイエ

スの神を神とし、己のごとく隣人を愛せという神の定めに従って生きることを求められながら、その定めから外

れて自己中心的に生きる、自分の中に神の定めに逆らう罪を抱えている者です。そのような罪人としての自分が

そのままの形で真の解放、救済はありません。そのような己に死んで、新しい人間、イエスの兄弟姉妹、神の子

にしていただなければ、真に正しく生きることはできないのです。

・エレミヤの時代のイスラエルの民もそうでした。エレミヤはそのイスラエルの民の死を示すために、結婚を断

念すること、悲しむ者と共に悲しまず、喜ぶ者と共に喜ばないこと、それこそ「非国民」と罵られても、そのこ

との孤独な苦しみに耐えて、例外者として立たざるをえなかったのです。そのようなエレミヤをイスラエルの民

は理解することは出来ませんでした。10節以下には、己の罪を自覚し悔い改めを拒むイスラエルの民の姿が描か

れています。<あなたが、この民にこれらの言葉をすべて告げるならば、彼らはあなたに、「なぜ主はこの大い

なる災いをもたらす、と言って我々を脅かされるのか。我々は、どのような悪、どのような罪を我々の神、主に

対して犯したのか」と言うであろう。あなたは彼らに答えるがよい「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ」

と主は言われる。「彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、わたしを捨て、わたしの律法を守

らなかった。お前たちは先祖よりも、更に重い悪を行った。おのおのそのかたくなで悪い心に従って歩み、わ

たしに聞き従わなかった。わたしは、お前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する。

お前たちは、そのところで昼も夜も他の神々に仕えるがよい。もはやわたしは、お前たちに恩恵をほどこさな

い。」>

・さてこの箇所の註解で関根正雄さんは、「(イエス・キリストの)福音は真に人を生かそうとする。預言に

はそれができない」と言って、福音と預言を対立的に捉えています。そして<福音は神の与え給う現実を断念

することなく、その中に生き抜くことを命じ、悲しむ者、喜ぶ者を避けず、それらと一つになる愛に生きるこ

とを命ずる。福音は愛による建設である。もちろん福音の時代にもこの世のものの否定があるが、それは真の

肯定のためである。福音もまた世の終わりの近きを知り、時は縮まれりという。それ故、持つ者も持たないも

ののように、泣く者も泣かないように、喜ぶ者も喜ばないように、妻を持つ者は持たないもののように、と言

われる(汽灰7:29,30)。ここには世を肯定的に否定している者の全き自由がある。信仰はこの世にあって

この世にない奇跡的な場所に生きるのである。エレミヤにおいて迫り来る審きの厳粛さの故に、すべては否定の為

の否定に終わり、まだ肯定には達しないのである。>と言っています。一方ヴェスターマンはエレミヤの苦難

に着目して、<ここには第二イザヤの苦難の僕を越えて、さらにキリストの受難に通じる一本の道が開かれて

いるのが見える。この隠された神の救済の道が、今やひとりの人間の苦難を通して、初めて切り開かれたので

ある>と言っています。ヴェスターマンによれば、エレミヤの預言の中にも、エレミヤの苦難を通して、キリ

ストの受難に通じる神の隠された一本の救済の道が切り開かれていると考えられているのであります。

・私たちにできることは、エレミヤに期待されたことと同じように、私たち自身の生き様を通して、キリスト

の受難に通じる神の隠された一本の救済の道が切り開かれていくことではないでしょうか。人を真に生かす道は

、人の命を軽んじて殺し合う戦争への道に死を宣告することによって、その先に見えてくるのではないかと思

います。服従の伴わない神の恵みは「安価な恵み」で、人を真の救済に導くことはできません。昨日の教区総

会で、「沖縄うるま市女性暴行殺害事件抗議声明」を出す議案が諮られました。その議論の中で、沖縄におけ

る米軍軍属による女性の暴行殺害事件に対する抗議には反対で、我々がしなければならないことは、ただキリ

ストによる救済を語る事ではないかという意見が出ました。それに対して創造者なる神によって与えられた命

が踏みにじられたことに反対の声を上げないで、キリストによる救済を語ることは出来ないのはないかという

反論がありました。それを語ることはそれに伴う苦難を担う事でもあります。しかしエレミヤと共に、私たち

は今この時代と社会の中で同じ道を進んで行かなければならないのではないでしょうか。主が共にいて私たち

を支えてくださいますように。