なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(53)

    「権力への言葉」エレミヤ書22:1-9、2017年1月15日船越教会礼拝説教

・最初に昨日みた映画「飯館村の母ちゃんたち土とともに」について、今日の聖書箇所であるエレミヤ書

22章1節以下のエレミヤの「王宮批判」の預言とも間接的につながる問題ですので、お話をさせていただ

きたいと思います。

・この映画は、東京電力福島第一原発事故で全村避難となり、仮設住宅で暮らすようになった、それぞれ

すでに亡くなっている夫同士が親戚にあたる、現在80歳のEさんと79歳のYさんの二人の日常を追う映像が

見事に原発事故とは何かを物語っているように思いました。二人は原発事故が起こるまでは、飯館村とい

う自然が豊かで美しい、けれども生活するには大変厳しい所で、何代にもわたる先祖からの知恵と工夫に

より、親、子、孫の3代で暮らしていました。ところが原発事故により、避難先で生活する子や孫と離れ

て、福島県伊達市仮設住宅での生活を余儀なくされました。二人は隣同士で住んでいます。近くに借り

た畑で、長年培った農業技術を生かして、野菜を育てて生活しています。言葉を次々に紡ぎ出すEさんとそ

れを静かに聞いているYさんの組み合わせは絶妙な関係で、映画を観る者に、二人が深い信頼関係に基づい

た共生を支えに、それぞれが自立して生きている個性的な姿を深く印象付けてくれます。映画の中でEさん

は、このように語っています。「先祖代々伝わってきた土地を守るのが、農業に、土に生きる者の使命な

んだよ。時代の国や世界の流れに逆流しながらも、もがきながらも、土に生きて、自然を大事にして、同

時に自然の恩恵を受けて、ああ、生きているという実感を味わいながら、私たちは生きてきたんだ」と。

このEさんの言葉には、政治経済的なその社会の営みによる恩恵によってではなく、自然の恵みによって生

きて来たんだというニュアンスが強く響いています。社会の流れに抗って、自然との共生を自立して生き

て来たんだと。飯館村原発でつくった電気も交付金の恩恵も受けていないのに、突然の原発事故による

放射能被害で全村避難を強いられ、原発事故によってそれまでの住民の生活がすべて奪われたのです。

・この映画をつくった古居みずえ監督は長い間パレスチナの女たちや子どもたちを撮り続けている人です。

その古居みずえさんは、「飯館村パレスチナは政治状況も違うし、片方は放射能に、片方はイスラエル

に占領されている点でも違う。しかしながらそこに苦しむ人が故郷を追われ、生活を丸ごと奪われている

点では共通する」と言っています。どちらも政治の犠牲者と言えるでしょう。

・その政治を中心になって動かしている権力者が、古代から現代にいたるまで、国は異なってもどの社会

にも存在しています。近代国家以前の社会では王様や軍事クーデターによって権力を握った封建的な権力

者によって、民主的な近代社会では選挙によって選ばれた政権を担う権力者によって政治が行われていま

す。現在日本の国で政治的権力を握っている安倍政権は、原発再稼働をし、2020年の東京オリンピック

ために福島原発事故は終息したことを世界の人々に示すために、原発事故による放射能で苦しむ福島の人

々を見捨てようとしているのです。そういう政治権力に対して、私たちはどのように対峙していったらよ

いのでしょうか。

預言者エレミヤは、王に対する預言を語り、言葉によって当時のユダの国の政治的権力者に対峙しまし

た。今日の箇所もそうですが、その前の21章12節で、「ダビデの家よ、主はこう言われる。/朝ごとに正

しい裁きを行え。/搾取されている人を/虐げる者の手から救い出せ。」と語っていました。「ダビデ

家よ」と言われていますから、ここでは王家に対して語られていますが、今日の22章1節以下では、王家だ

けではなく、もう少し広く、王が住んでいる王宮に出入りする人々、つまり王と王に仕える人々に対して、

「王の宮殿」に対する預言として語られているのです。「ユダの王位に座(すわ)るユダの王よ、あなた

もあなたの家臣も、この門から入る人も皆、主の言葉を聞け」と2節で言われています。そしてこう語られ

ているのです。「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。

寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で無実の人の血を流してはならない」

(3節)と。このエレミヤの預言には、政治的な権力を握っている人たちは、その権力を誰のために用いる

のかが明確に示されています。古代イスラエルでは王制も神に仕える権力に過ぎませんでした。王と言え

ども、専制君主的な恣意的権力の乱用は許されませんでした。そのような王には神の裁きが下ると語られ

たのです。王制はこの3節で語られているような「神の法秩序と内容に結びつくことによって、王を弱き者

に対して神の義と憐れみを地上において代行する者と定め、専制君主的な恣意に歯止めをかけている」の

です。

・王宮があったエルサレムでは、王宮の上にエルサレム神殿がありました。22章1節の「ユダの王の宮殿へ

行き」と新共同訳で訳されているところは、関根訳では「ユダの王の家に下り」と訳されていますように、

エレミヤは、エルサレム神殿で、王宮に下って行くように神の命令を受けたのです。王宮より高い位置に

あった神殿の中にいたエレミヤには、「王宮に王、王の家臣、そして民が集まっているのが見えた」のか

もしれません。ワイザーはその時王宮では、毎年行われていた王の即位の祝祭が行われていたのではない

かと言っています。その即位の祝祭では、王が多くの者を従え、王宮の門を通る厳かな王の入場行進があ

り、それに続いて王が「ダビデの王座」に就く」のですが、その「ダビデの王座」に王が就いた瞬間に、

神殿にいたエレミヤは王宮に下り、神のことばを王とその祝祭に集まった会衆とに向けて語ったのでは

なかと言うのです。

・この預言がそういう状況で語られたとすれば、大変な臨場感があったに違いありません。預言者エレミ

ヤも、王と王の即位を記念して行われているその祝祭に集まった人々によって迫害されるかもしれないと

いう不安を抱えながらも、神の命令に従って預言を語ったに違いありません。神のみ心はそれに従って生

きる人々によってこの世に現わされるのです。

・「先祖代々伝わってきた土地を守るのが、農業に、土に生きる者の使命なんだよ。時代の国や世界の流

れに逆流しながらも、もがきながらも、土に生きて、自然を大事にして、同時に自然の恩恵を受けて、あ

あ、生きているという実感を味わいながら、私たちは生きてきたんだ」と言われるEさんは、神の創造世界

であるこの大地で神から命を与えられた一人の人間の祝福を、その生きざまによって現わしているように

思います。

・沖縄の辺野古や高江で海を守り、ヤンバルの森の自然を守る人々も、この神の創造世界である自然との

共生によって、神によって与えられたこの命の祝福を大切にしているのではないでしょうか。神と自然と

人間とで作り出すシンホニー、共鳴、共振こそが、神のみ心であり、私たち人間の祝福ではないでしょう

か。それを神に命与えられた同じ人間の驕りが破壊するのです。原子力発電や軍事力はまさにその人間の

驕りの現れではないのか。20世紀には二つの大きな世界大戦による悲惨を人類は経験しました。21世紀に

移行する時に、21世紀こそは平和な世界を実現したいと多くの人が願いましたが、残念ながら21世紀の17

年目に入った現在も、シリアの内戦をはじめまだ戦争から世界は解放されていません。

・政治の実権を託されている人々は、このエレミヤの預言に耳を傾けなければなりません。バルメン宣言を

出した第二次世界大戦下のドイツの告白教会のように、教会はその信仰告白とその服従によって、政治的

権力と言えども神のことばに従うように語らなければなりません。その灯にふたをしてしまったり、塩気

のない塩になってしまっては、教会は、宗教ではあっても福音によって生きる信仰者の群れとは言えない

でしょう。

・このエレミヤの預言との関連で、イエスがその活動の最後に、なぜエルサレムに上っていかれたのかを考

えさせられます。ガリラヤでの病者や悪霊に憑りつかれた人の癒しの行為を続け、当時のユダヤ教の指導者

だったファリサイ派の律法学者とも、安息日律法をめぐる論争のように、強いて争わず、ひたすら困ってい

る人の救済に徹していけば、十字架に架けられることもなく、長く民衆の救済者として活動できたのではな

いかと思うのです。イエスはなぜエルサレムに上り、エルサレム神殿で、この家は総ての人祈りの家だと言

って、そこで商売する両替人の台をひっくり返えしたり、犠牲獣を売る人を追い出しすパフォーマンスを

演じたのでしょうか。つまり神殿を批判するようなことをしたのでしょうか。

・私はこのイエスの宮清めの行為にはエレミヤと同じ政治権力への批判があるように思います。イエスの時

代のエルサレムでは神殿に仕える大祭司が七十人議会(サンヒドリン)の議長も務めていました。七十人議

会はローマ帝国の属州ユダヤにおける政治的自治機関でありました。ですから当時の大祭司は宗教的実権と

共に政治的実権も握っていたのです。その大祭司が長を務めるエルサレム神殿で、そこで商売する両替人の

台をひっくり返えしたり、犠牲獣を売る人を追い出すパフォーマンスをイエスは演じたのです。このイエス

の行動は明らかに預言者の象徴行為です。また、イエスの弟子たちが、神殿を指さして、「先生、御覧く

ださい。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったとき、イエスはそれに答えて、

「これの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語っ

たと言われています(マルコ13:1-2)。

・これらのイエスの言葉と行為もまた、「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者

を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で無実の

人の血を流してはならない」(3節)というエレミヤの王宮批判の預言を徹底化したものということでき

るでしょう。

・とすれば、イエスを主と信じる私たちは、今この日本の地において、福島や沖縄の人びとを切り捨てよ

うとしている政治権力に対して、否を突きつけなければなりません。それと共に、私たちは誰と生きるの

か。この社会の中で搾取され、虐げられている人々と、とても共に生きるなどと簡単にはいえませんけれ

ども、そのような人々と共に生きることをめざしていきたいと思うのです。何故なら100匹の羊の譬えで

語られていますように、羊飼いは99匹を「放置して」まで、失われた一匹を探し求め、見つかったら99匹

の所に連れて来て、みんなで喜んだと言われているからです。主イエスは一人でも失われるとすれば、そ

のことを深く悲しみます。身近なそのような一人との関わりを大切にしながら、福島や沖縄の人びとを見

棄ててまで、アメリカとの軍事同盟を、大企業が恩恵を受ける経済成長をめざす政治権力への言葉を、エ

レミヤの王宮批判の預言から学んでいきたいと思います。