なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(87)

   「背を向ける」エレミヤ書32:26-35、2018年3月4日(日)船越教会礼拝説教


預言者エレミヤは、32章17節で、「主なる神」についてこのように語っています。<ああ、主なる神

よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何

一つありません>と。ここでエレミヤは、神は万物の創造者であり、すべてのことに神の力が及んでい

る、と言っているのです。


・そのように告白したエレミヤでしたが、しかし、戸惑いのようなものを感じていたようです。神に命じ

られ、アナトトの畑を買うという象徴行為によって、神によるイスラエルの民の将来の回復の預言と、

今、目の前に展開されているバビロンによるエルサレム包囲とその破壊が迫っている状況とが、なかなか

エレミヤの中で繋がらなかったからではないかと思われます。その心の揺らぎを、エレミヤは押さえるこ

とができなかったようです。


・前回エレミヤの祈りにおけるそのようなエレミヤの心の揺らぎについてお話ししました。前回の箇所の

最後の所を、もう一度読んで見たいと思います。32章24節以下ですが、<今や、この都を攻め落とそうと

して、城攻めの土塁が築かれています。間もなくこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカル

デヤ人の手に落ちようとしています。あなたの御言葉のとおりになっていることは、御覧のとおりです。

それにもかかわらず、主なる神よ、あなたはわたしに、『銀で畑を買い、証人を立てよ』と言われまし

た。この都がカルデヤ人の手に落ちようとしているこのときにです>(32:24,25)。


・<ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御

力の及ばない事は何一つありません>。これは、今申し上げましたように、全てのこと(事象)の中に神

の意志と力が働いているということを意味します。この信仰によれば、当然バビロンによるエルサレム

囲と破壊という出来事の中にも、主なる神の御力が及んでいることになります。エレミヤもそのように信

じていたと思われます。<今や、この都を攻め落とそうとして、城攻めの土塁が築かれています。間もな

くこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカルデヤ人の手に落ちようとしています。あなたの

御言葉のとおりになっていることは、御覧のとおりです>というエレミヤの言葉にそのことが窺われま

す。このことは、主なる神が、カルデヤ人を自分の使者としてユダの国とその民イスラエル人を諫めたと

いうのでしょう。


・そのことが、今日のエレミヤ書32章26節から35節で、エレミヤに臨んだ主の言葉として記されていま

す。まず先ほど最初に引用しましたエレミヤの言葉<ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、

腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません>(32:17)に対応す

る主の言葉が、27節に出てきます。<見よ、わたしは生きとし生けるもの(新共同訳以外の他の多くの訳

では「すべて肉なる者」となっています)の神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあ

るだろうか>と。そして続けて、<それゆえ、主はこう言われる。わたしはこの都をカルデヤ人の手に、

またバビロンの王ネブカドレツアルの手に渡す>と。バビロン王がエルサレムを占領し、カルデヤ人が突

入し、火を放って焼き払うと。その焼き払われる多くの家は、屋上で異教の神々の祭儀礼拝が行われた家

で、<わたしを怒らせた>ので<焼き払う>と主なる神が言うのです。


・さらにこのような言葉が続きます。<その初めから、イスラエルの人々とユダの人々は、わが前に悪を

のみを行ってきた。実にイスラエルの人々は、その手の業によって甚だしくわたしを怒らせてきた、と主

は言われる。この都は建てられた日から今日に至るまで、わたしを怒らせ憤らせてきたので、これをわた

しの前から取り除く。イスラエルの人々、ユダの人々が犯して、わたしを怒らせたそのすべての悪事のゆ

えである。王、祭司、預言者、ユダの人々、エルサレムの住民、皆同罪である>(32:3032)と言われて

いて、イスラエルの人々、ユダの人々のその犯してきた悪と罪の故に、主なる神は怒り憤ってきたという

のです。33節では、<彼らはわたしに背を向け、顔を向けようとしなかった。わたしは繰り返し教え諭し

たが、聞こうとせず、戒めを受け入れようとしなかった>と言われていて、主なる神に対してイスラエル

の人々とユダの人々は背を向け、顔を向けようとしないで、繰り返し教え諭してきた神の言葉を聞こうと

もせず、その戒めを受け入れようともしなかったというのです。


・そして最後に、<彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し、ベン・ヒノムの谷

に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクにささげた。しかし、わたしはこのようなことを

命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった

>(32:34,35)と言うのです。<わたしは・・・・思ってもみなかった>と主なる神が言うほどに、ユダ

の人々は息子、娘を犠牲としてささげる異教の神モレク礼拝という忌むべき行いによって、罪に陥ってい

たというのです。


・つまり一度イスラエルの人々、ユダの人々は死ななければ、その再生はあり得ない。彼ら彼女らが再生

するためには、一度死んでそれまでの犯した悪と罪に陥った彼ら彼女らの生き方が断たれなければならな

いのです。そのためにバビロンによってユダの人々を主なる神が打ったのです。エルサレムの町の破壊、

ユダの国の滅亡、ユダの人々のバビロン捕囚、それらすべてはバビロンを使っての神の業だと、エレミヤ

の預言は語っているのです。


・このエレミヤの預言では、<王、祭司、預言者、ユダの人々、エルサレムの住民、皆同罪である>と言

われていて、あたかも唯一預言者エレミヤだけが神への真実を貫いていたかのように描かれています。


・このようなエレミヤ書の状況は、戦前の日本の国でも、全く同じではないとしても、極めて近い形で現

れていたのではないでしょうか。矢内原忠雄は、1937年10月1日日比谷の市政講堂で開かれた藤井武第七

周年記念講演で、「神の国」という題で、20分くらいの短い講演をしました。その中で、「今日は、虚偽

の世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、或いは理想を失ったる日本の葬りの席でありま

す。… どうぞ皆さん、もし私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一

先ずこの国を葬ってください。」と言いました。この「日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬っ

てください。」という言葉を警察に突きつけられて、当時の長与という東大総長は矢内原をかばうことが

出来ずに、矢内原は東大教授を辞任という形でしたが実質的に追放されたのです。


・矢内原は1937年の日本の状況を、エレミヤ書で「王、祭司、預言者、ユダの人々、エルサレムの住民、

皆同罪である」言われているように、総体として葬らなければだめだと考えていたと思われます。ですか

ら、「日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください。」といったのだと思います。1937年

は盧溝橋事件が起きた年であり、この頃から日本は中国への本格的な侵略戦争に突入していくのです。こ

の年の終わり頃に日本軍は南京を攻撃し陥落します。虐殺が行われたと言われる南京事件が起きた年で

す。翌年の1938年は国家総動員法が出来て、日本の国は全面的に戦争に突入していくのです。矢内原忠雄

は植民地研究を通して、戦前の日本の天皇制国家の犯罪性に気づいていたと思われます。ですから、矢内

原は講演の中で、「日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください。」と言ったのだと思い

ます。この矢内原の言葉は、預言者的な発言と言ってよいかも知れません。


・矢内原がこの発言をしてから4年後に国家の圧力によって日本基督教団が成立し、教団は天皇制国家の

枠組みの中に組み込まれて、積極的・消極的に戦争協力をしていきます。文部省によって教団の統理に立

てられた富田満は、「1942年1月、総務局長と一緒に伊勢神宮を参拝して、日本基督教団の発足を報告し

て、今後の発展を祈願し」ています。また、「戦後初の常議員会で、一議員から富田統理と役職員は、戦

争責任をどのように考えるべきかと問われて、富田は『余は特に戦争責任者なりとは思わず』と言い切っ

た。このように戦後に戦争責任を感じてはいなかった。」と言われています。如何に矢内原忠雄と富田満

が違うか、お分かりになると思います。残念ながら、戦時下のキリスト者の圧倒的多数は富田満に同調し

ていたと思われます。矢内原忠雄はそれこそ当時としては稀有なキリスト者であったのです。


・さて、エレミヤの時代にユダの国は、王をはじめ、祭司、預言者、ユダの人々、エルサレムの住民の殆

ど全てが悪に加担し、罪に陥っていたために、バビロンによって滅ぼされました。一度国として葬られた

のです。矢内原忠雄も、1937年という日本の天皇制国家による犯罪的な戦争行為を踏まえて、「日本の理

想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください。」と言いました。この矢内原の言葉は、日本の国の

敗戦という形で、聞き届けられたと言えるかもしれません。


・では、現代の私たちはこのユダの国の滅びを語るエレミヤの預言から、何を聞くことが出来るでしょう

か。私たちは敗戦によって、それまでの日本の天皇制国家が滅んだということを忘れではなりません。日

本国憲法前文には、戦後の日本が平和国家として歩む決意が述べられています。少し長くなりますが読ま

せていただきます。お手元に憲法前文のコピーがあると思いますので、それを御覧になりながらお聞きく

ださい。


・<日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のため

に、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によ

つて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言

し、この憲法を確定する。/そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に

由来し、その権力は 国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。/これは人類普

遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令

及び詔勅を排除する。/日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く

自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと

決意した。/われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐ

る国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。/われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠

乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。/われらは、いづれの国家も、自国

のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、

この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ず

る。/日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。>。


・この憲法前文は、矢内原忠雄の言葉「日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください。」

における「日本の理想」にふさわしいと言えるのではないでしょうか。安倍政権は、この憲法前文の精神

を踏みにじって、戦前の日本に回帰するかのように、戦争のできる国造りを進めています。この安倍政権

の目論見が成功するならば、矢内原の言葉をもう一度言わなくてはならないような状況になるに違いあり

ません。私たちキリスト者は、この憲法前文に従って平和を求める全ての人々と共に、主イエスに従っ

て、「聖霊によって与えられる義(正義)と平和と喜び」(ロマ14:17)を求めていくことによって、世

界平和の建設に仕えていかなければなんりません。そのためには、そのことを可能とする命の力を、イエ

スを通して神が私たちに与えてくださるように、共に祈りつつ、励んでいきたいと思います。