なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

バラバラのいっしょ

私は「バラバラのいっしょ」や「みんなちがって、みんないい」というコピーが好きだ。

「バラバラのいっしょ」は、教会に来ている人がラジオかテレビの対談かなにかで聞いて、教えてくれて知った。「みんなちがって、みんないい」は金子みすずの童謡の中にあった言葉のように思う。

なぜこの二つの言葉が好きかと言えば、この二つの言葉には自由と解放の響きがあるからだ。抑えつけられるような圧迫感だとか、強制感だとか、そういう感じがしないからである。

これが「いっしょのいっしょ」だったり、「みんなみんな同じ」だったりすると、何だか息苦しく聞こえてくる。制服を着て軍事訓練をしている兵隊さんたちの姿が浮かんでくる。戦前の日本の軍隊はひどかったそうだ。私の尊敬する牧師は、出征して軍隊に入ったが、何度も何度も上官から殴られて、10年寿命がちじまった、と言っていた。日本の教育は、未だに国の役所が主導していて、均一的な教育が行われている。個人個人を大切にする視点が極端に欠けている。息苦しくて学校には行けない、という子どもたちが出るのが分かるような気がする。

また、「バラバラのバラバラ」や「みんなちがう」だけでも困る。独りで生きられれば、それでもかまわないかも知れないが、われわれは共同社会の中で生きている。よっぽど自給自足ができて、孤島にでも生活しないかぎり、共同社会の恩恵によって、はじめてわれわれは生ることができるからである。みんなが勝手に自己主張して、他の人のことなどどうでもいい、というのでは自分も自由に生きることはできない。

だから、「バラバラのいっしょ」「みんなちがって、みんないい」がいい。

聖書の中にも同じようなことが言われているところがある。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。・・・だから多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって、『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(コリントへの信徒への手紙12章12-26節)。